Astrological Academy


CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>
CATEGORIES
ARCHIVES
占い否定の占い哲学〜身の丈人生の薦め〜

深層心理の動き、つまり過去世のカルマの宿るのは、よい行為も悪い行為も含めてクンダリーニでいうムーラダーラチャクラだと言われている。ここに宿る深い次元の無意識が我々の人生を良くも悪くも作り出す。それを人為的に変えることは不可能である。風水、宝石、方位、択日等々諸々の開運法は既述のように飽く迄カルマの範囲内の開運である。宿命転換、人生に不可能はないなど戯言に等しい。そんな絵空事を言う人には質問したい。努力すれば誰でもオリンピックで金メダルが取れるだろうか。努力の価値は十分に認めるが、それは資質と運の範囲内である。身体強健、運動神経抜群、強靭な筋肉、こんな資質に恵まれた人が、人生のふさわしい年齢期に優秀なコーチに恵まれ、本人も厳しい訓練に耐え抜いて始めてオリンピックで金メダルが取れる。この厳しい訓練に耐え抜くことがまさに努力の価値である。本人が厳しい訓練に耐え抜く意思と実行力を持たない限りいかなる資質や運に恵まれても、勝利の女神はほほ笑むことはない。しかし、虚弱な身体、鈍い運動神経、弱い筋肉の持ち主はどうだろう。(そのように生まれてきたこと自体がカルマに他ならない)そういう人でも努力すれば体が丈夫になり人並にスポーツが楽しめ、同好会程度のスポーツクラブなら十分にやっていけるようになる。その程度にはなる。しかしそれ以上は無理だ。それ以上を望もうとしたらかえって身体を壊す、大きな怪我をする、徒労の努力で無駄な時間と金とエネルギーを費やすだけになる。人生だってこれと同じだ。私が「身の丈人生」を強調すると何か消極的で諦めを教えるように聞く人もいるかもしれない。そうではない。人生に努力が大切で、少々の困難で簡単に諦めてはいけないのは当然のことだ。但し、「努力の方向性」「努力の方法」「努力の時期」を間違えてはいけないということが言いたい。その正しい選択を優れた占術や腕のいい占い師は教えてくれるだろう。

いわゆる不幸な人生を歩む人はこの選択を間違えている事が多い。そもそも間違えている事自体を自覚していない。或いは間違えている事は分かっていても我執、煩悩、執着の為に方向転換ができない。人生修行とは色々の人生経験を通してそのことを自覚し執着を断つことであって煩悩にしがみつく事ではない。そういう自覚があってこそ占いのアドバイスが生きてくると思う。そもそもそういう人は占い自体を必要としない

この記事のリンク | 人生運命雑感 | comments(0) | trackbacks(0) | top↑ |
「現象は心の影である」ということの意味。

唯心論哲学では「現象は心の影である」ということをよく言う。これは人は心の中で思ったことはその通り現象化する、実現するという意味である。その言葉を逆用して、ナポレオンヒルの成功哲学ではないが、「思考は現実化する」といった非常に楽観的な考えが出てきたりする。そこまで行かないまでも、「笑う門には福来る」とか「ネガティブな言葉は口にしない」とう考えは一般化している。これもある程度までは本当だろう。そうはいっても、人間自分の願望が簡単に実現したり、煩悩が現実化したりというようなことが簡単に起こることはない。開運の為の人為的操作など無駄とは言わないが、開運というのはあくまでカルマの範囲内の事柄であるそれ以上は我執妄執にすぎない。私から言わせれば「現象は心の影である」という言葉はもう少し奥が深い。フロイト理論が示すように、人間の意識は潜在意識、無意識と階層化されている。その無意識の一番奥深い所にあるのが、仏教でいう末那識、阿頼耶識の部分である。ここに過去世のカルマが宿るとされている。この部分から迸る心的エネルギーが人間の運命や環境、出会いを作り出す。それは人間の表層的な欲望や願いだけで決してコントロールできない。インド占星術は人間が宿しているカルマを惑星を通じてホロスコープの上に示す。そんな変えられないものを示して何の意味があるのかということになるが、それでも意味がある。例えば、人が原因不明の病気に悩み診断の結果その原因が分かったとしても、それでその病気がすぐ治るわけではない。しかし直すための治療法、道筋は分かる。そうすれば希望も湧いてくる。それと同じだと思う。ホロスコープが示すカルマを人が受け入れる時、その苦悩の原因がつかめる。そうすればカルマそのものは変えられなくても、よりよい生き方の道筋は示すことができる。それは絶望ではない。希望である。私はインド占星術の意義はそこにあると思っている。

この記事のリンク | 人生運命雑感 | comments(0) | trackbacks(0) | top↑ |
求めよ、さらば与えられん、だがしかし・・・・・
新年なので現世御利益的な占い論ではなく、少しスピリチュアルな話をしてみたいと思う。

「求めよ、さらば与えられん」
という言葉がある。これは『新約聖書マタイ伝』の山上の垂訓にある言葉で、「求めよさらば与えられん、叩けよさらば開かれん」とある文言に由来する。これは占星術的にみても本当だと思う。しかし、ただ願いさえすれば叶うというほど事は簡単ではない。

求める気持ちの強さは、インド占星術的にはどこに現れるだろうか。それはハウスに現れる。あるハウスに惑星集中していたり、アスペクト集中していたり、高揚惑星が在住したり、火星或いはラーフがあったり、アシュタカヴァルガ得点が非常に高かったりする場合がある。そうするとハウステーマの象意を実現するために、人は非常に熱心に行動する例えば、7室に惑星が集中していれば、よき配偶者、パートナーの獲得をめざして熱心に行動する。合コン、ナンパ、お見合いパーティ、社交クラブ等々、金と時間を惜しまないしなりふり構わない。従って、恋人、セフレ、愛人、配偶者を得る可能性は高くなる。ただしそれがいい人であるかどうか話は別である。

或いは3室に惑星集中していると、スポーツ、自己啓発、芸事等に情熱を傾け、やはり金と時間とエネルギーを惜しまない。従って、結果として肉体的訓練が大切な分野で成功する確率は高い。これも7室同様、ある分野の名人上手になれるかというとそうとは限らない。「下手の横好き」の場合もけっこうある。しかし人上手になる可能性は普通人よりはずっと高くなる。そういう意味では「求めよ、さらば与えられん」は占星術的にみても真実である。

7H惑星集中
 7室惑星集中のホロスコープ

それなら結婚運の弱い人は、熱心に求めればよきパートナーは得られるのかというと、話はそう単純ではない。人はどの方向に心的エネルギーが向くかは生まれつき決まっている。人間の気分や日常での表層意識レベルで強く意識したり願う位で、この無意識層の心的エネルギーの力や方向性を変えることはできない。人はこの無意識層では何を求めているか、表層意識では知る由もないし自覚もない。病気になることを表層意識で求める人はいるはずがない。しかし病苦によって深い悟りを得たいと思っている人はいるかもしれない。孤独を求める人はいないが、孤独や寂しさを通じて人生の真実を知りたいと思う人もいるかもしれない。その気持ちがホロスコープに示され、そのままその人の人生に反映されているかもしれないのだ。

仏教的にいうと「阿頼耶識」と呼ばれる無意識のさらに奥底にある領域がある。それは感情や行動の根源と思われる心の基層部分である。万物は阿頼耶識に縁起すると言われている。即ち前世も現世も来世も、人の行動や思考は阿頼耶識から生まれると仏教では説く。そこから人の運命が決定される。それが即ち「カルマ」である。

これを好ましい方向に変えていくにはどうするか、それも現世だけで考えた好ましい方向ではなく、前世も現世も来世のすべてを含んだ上でのよき方向ということになる。スピリチュアルアストロジーでは、困難と障害のハウスと定義されるドゥシュタナハウスを必ずしも悪いとは考えない。こんな所にインド占星術の宗教的な深さがあると私は思う。現世利益だけを求める他の占いとは根本的にちがう。この心的エネルギーをコントロールしていくには当然「修行」が必要になる。これが人がこの世に生まれた意味ではないかとふと思うことがある。瞑想や善根を積むことはもちろん大事だが、それを山奥にこもってではなく濁世の中でもまれながら実現することこそ大事だろう。

現世から離れて人間社会の煩悩と距離を置き、女性を遠ざけ、肉酒のない生活空間に身を置いても悟りなど開けない。そういう生活をすれば、金銭欲、食欲、性欲など誰でもコントロールできる。でもそれは根無し草のスピリチュアリズムというものだ。法華経では濁世を泥沼に喩え高い理想を蓮華に喩える。欲望渦巻く人間社会の中で、実務をこなしビジネスも行い、異性とも健全につき合い、食生活も選択的にコントロールできてこそ本物だと考えるのは私だけだろうか。
 
この記事のリンク | 人生運命雑感 | comments(1) | trackbacks(0) | top↑ |
「人間万事塞翁が馬」と占星術の吉凶
人間万事塞翁が馬」とは、人生で何が幸いし何が不幸になるか単純には分からないことの喩えである。中国「淮南子」の故事であり、塞翁の息子が落馬して足を骨折したが、そのおかげで兵役を免れ命を永らえた話に由来する。

運命学や占星術の法則、事例をみるとこのような吉凶逆転の見方は多くある。インド占星術でいうとニーチャバンガラージャヨガやヴィーパリータラージャヨガの見方考え方がこれに相当する。或いはドウシュタナハウスに惑星が集中している人の特殊な分野での成功などがこれに当たるだろう。惑星が減衰する配置は基本的によくない。しかしケンドラハウスにその支配星が絡む時必ずしも悪い出方はしないことがある。金星が減衰していても芸術家として成功したり、太陽が減衰しても職業的に成功する例などは珍しくない。ただ普通の成功のしかたはしない。金星減衰でたとえるならば、普通なら「色気がない」と受け止められる人がどういうものか「さっぱりしている」「さばさばしている」と受け止められて、周囲からそれが故にむしろ好感をもって迎えられる人がいる。或いは、「華やかさに欠ける」が故に、妙な派手さを追い求めず地味で堅実な分野に努力の方向を集中する。それが逆に社会的成功要因になったりする。でも「色気がない」「華やかさに欠ける」という面は否定しがたい。こんな人生となる。

森光子死亡時刻
太陽減衰、金星減衰の成功者

西洋占星術でもグランドクロスの持ち主は必ずしも不幸な人生を送るとは言えない。苦労は多いとしてもしてもプログレス、トランジット、ハーフサムのよい時期は成功する人もいる。四柱推命でも日主が極端に弱い従格の人がある大運期には大成功した人の例を挙げることができる。もちろんすべての人がそうだというわけではない。むしろ上記の人の成功率は低いので、低空飛行の人生で終わるか、異常な成功をもたらすかは、他の諸条件をよくみていかなければならない。
この記事のリンク | 人生運命雑感 | comments(0) | trackbacks(0) | top↑ |
占いブログでのコミュケーションの難しさ
占いブログを書いていてつくづく難しいと思うのは、メールだけのコミュニケーションが如何に難しいかということである。下手にメールを書くと伝えたい意図とは違うニュアンスで相手に伝わることがよくある。これが個人間、友人間の間なら、メールを送ってから直接会って話しあったり、口頭で説明したり、メールを送った後に電話をかけたりすることもできるのだが占いブログではそれができない。

いうまでなくコミュニケーションの方法にはそれぞれに得意不得意がある。論理的な情報を伝えるのが得意なのはメールだろう。一方で、感情的な情報を伝えるのが得意なのは電話である。電話でちょっと話すだけで、相手の感情がやわらぐことはよくある。逆にちょっとした失言で感情を害するのもまた電話である。その点、手紙は両方の利点を兼ね備えているように思える。手書きの文章を読むとその人の感情が伝わってくるし、伝えたいことを整理して文章にすることもできる。昔からやり方だがコミュニケーション手段として今なお大きな意味をもつと思う。

メールのやり取りをしてこれはと思うことがある。会って話すとなんでもないのにメールでは怒っていると感じたり、逆にメールでは気さくそうなのに会うと気難しい人がいることである。メールと実際のギャップというのはよくある話だ。それだけメールは相手に自分の実像とは異なる印象を与えるということである。

一般的に知識体系について議論するのは注意深さが必要だ。特に占いの場合、誰もが共通基盤に立てる、たとえば文科省の学習指導要領のような標準的基準に基づいて教育を受けるわけでもない。それだけに占いや占星術についてブログで語り、それを読み手に正確に認識してもらうのは非常にむずかしい。占いと一口に言っても考え方、方法、価値観はさまざまである。それぞれが専門家でありお互いに本家正統を主張しあっている。流派が違うとまるで宗教戦争のような態を呈する。占いの場合、根本にある違いは知識体系というより価値観の違いにある。(そう私は認識しているがこれも占い師によっては違うだろう)だからこれをブログ上で批判、論争することは大変難しいし下手にやるといたずらな誤解を招く。それが負のスパイラルを起こして妙に拡大してしまうこともある。

ブログやメール上での批判論争は「抗癌剤」のような作用をもたらす。つまり抗癌剤を使用すると、本来叩きたい細胞だけでなく周辺の正常な細胞まで傷つけてしまう。ブログ上での論争もそういう結果を招くことが多い。それを最近痛感している。同様なことがmixi,facebook等でも起こるので、これの対応のしかたについては反省する所がある。と言って名指しでやるのはもっと問題があるのでこれまた難しい。

たとえば私はよく霊能や心理占星術のことを時々批判している。しかし、真面目な霊能者や占星術の心理的活用まで否定しているわけではない。明らかに詐欺的な霊能者やアカデミックな心理学をあまり勉強していない心理占星術師に限定して批判をしているつもりなのだが、必ずしもそうは伝わらないらしい。真面目な霊能者や心理占星術師の気持ちも傷つけるようだ。それは気をつけようと思う。それは他の分野の占い師との会話でも生じうる問題だ。

逆に私がメールや他人のブログを読んで過大に受け止めていることもあるだろう。メールやブログだけのやりとりだとどうしてもそういう落とし穴に陥ってしまう。これも直接会って話をすれば、多くの場合、それほどでもないと思う。まあ、人の生き方は多様なのだと割り切ってマイペースを貫くのが一番いいだろう。どういう生き方をするかは、カルマによって決定されているという学問を勉強しているのだから割り切ることだ。しょせん人生はそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。

こうした問題もそれこそ酒を酌み交わし対面でじっくり話したらかなりの事柄は分かり合えると思う。しょせんメールだけではお互いの真意は伝わらない。しかし自分の主張はメールでしか伝えられない。それがまた新たな誤解と対立を生む。そこらあたりの舵取りは本当に難しい。

まあ、今後どういう対処をするか、より賢いブログの書き方をどうするか、これから工夫しなければならないだろう。占い及び占い師の性質という限界はあるだろうが改善をしていくつもりだ。

この記事のリンク | 人生運命雑感 | comments(2) | trackbacks(0) | top↑ |
当てる占い/開運に導く占い
一般的に言って、専門家同士は気が合わない。各人がそれぞれ専門的見識を持っているわけだから、意見が合わないのはある意味で当然である。占い師も一応は、運命学の専門家であるので、やはり占い師同士は意見が合わないことが多い。特に瑣末な意見の違いに拘る占い師は多い。それぞれの占い師が本家、家元、元祖を主張して、乱立している現状である。「まだ修業中なので」とか「勉強中の至らぬ身なれど」などと謙虚な事を言っていると、業界にはびこる「ほら吹き」「ハッタリ屋」どもに食われるだけになる。

意見の合わない対立点はいくつもあるが、その中の一つに、「占いは当ててこそなんぼのもの」なのか、或いは「当てるだけが占いではなく鑑定依頼者を幸せに導くもの」なのかと、いうテーゼがある。しばし、この点で占い師は衝突する。世間から見たらそんなつまらないことはどうでもいいじゃないか、と思うだろう。私も本音で言えばそんなことはどうでもいいと思っている。でもそんな瑣末な事に妙に拘るのが占い師の世界なのだ。

私自身は「占いは当ててこそなんぼのもの」派である。しかし、客観的に考えれば、そう二者択一的なものではないと思う。要するに、占いはまず当てることが必要条件であり、それを基礎にしてクライアントを少しでもよい人生の方向に導くことが十分条件ということである。まさか一方だけ満足していればよいと言う占い師もいないだろう。常識的に言えば、「どちらかと言えば当てる派」と「どちらかと言えば開運派」に分かれるということだと思う。

私は「どちらかと言うと当てる派」である。もちろんいくつか理由がある。一般的にいうと「どちらかと言うと当てる派」は卜占や命理系の占術を行う立場である。又、「どちらかというと開運派」という立場は、大きく分けて心理分析派と開運風水派の2つの立場がある。

まず、占いを通じての心理カウセリングは、クライアントが自分探しや心の癒しを求めているならば有効である。しかし、明快な占断を求めている時は、曖昧で役に立たない。それに現代のアカデミックな心理学ではユングなど古臭い遺物として相手にしていない。心理分析に終始するならそれは心理学に任せるべきと言うのが私の立場である。「占い」の真骨頂は、心理分析ではなく未来を予言することにある。心理分析は本人を励ます為に、しばしばポジティブシンキングを行う。しかし、それが必ずしもクライアントに良い結果をもたらすとは限らない。それは現実を直視しない、危機管理をおろそかにする、その場だけの場当たり的対応をすることにつながる。

それと「どちらかというと開運派」の立場は、私の目からは、自分の占いが当たらないことの言い訳けに使われているように見える。確かに当てさえすればいいというものではない。しかし、まずは当てるという基本的態度なくしてクライアントを良い方向に導くことはできない。現実を踏まえない指導は、ピント外れなアドバイスとなり開運どころか不幸をもたらす。

あと「どちらかというと開運派」の人の中には、気学、風水、奇門遁甲、姓名判断、宝石療法等々開運系の占いを専門にしている占い師が多い。私は開運系の占いが有効でないとは言わない。私の経験からしてもそれなりに効果はある。だが、「それなり」であって、命理を越えた開運をすることはない。常識で考えてその効果の適用限界がある筈である。

占い師が健康指導をすることはあっても、あくまで占い師としての立場からである。現代の先端医学で治せないものを占い師が治せることなど万に一つもない。どのような加持祈祷、、護符、吉方取りをしたところで、霊験あらたかな特効薬を処方することなどできない。或いは、占いで相場、株式、為替の予測をすることがあるが、あくまで市場全般の傾向を読むだけである。それ以上のことは、つまり個別銘柄の株価や上下変動の時機等の具体的な予測はド素人では不可能である。金融の専門家の領域である。そういう相場の専門家ですら見誤るものを、相場のド素人の占い師がどうして個別銘価格、時機をスバリ言い当てることができるだろう。そこの所で占いを盲信して、その可能性を過大評価するのは、占う側も見てもらう側も危険千万である。

それでは占いにおいて、当たるとはどういうことかというテーマが出てくる。どこまでの精度があれば、当たるというのかという問題がある。又、それをどうやって証明するのかという反論もあるかもしれない。これについてはまたの機会に考えを述べたい。
この記事のリンク | 人生運命雑感 | comments(0) | trackbacks(0) | top↑ |
身の丈人生を歩もう!
現代日本社会では、「個性ある生き方」を教育等で建前上は尊重している。しかし、実態は性に関してのみ「自由恋愛」の美名を隠れ蓑にしてふしだらになっているだけと言う気がする。創造性や活力の乏しいこと甚だしい。個性的と思われがちな若者だが、実は中高年以上に周囲の見る目を気にするひ弱な人間がなぜか多い。それに妙な理解を示す中高年も嘆かわしい。駄目なものは駄目となぜ言わないのだろう。それが国家や民族の悪しきカルマとなり、国家衰亡の遠因になっていることが分かっていない。

欧米を見習うなら、議論の進め方、論理的思考、社会正義への自己主張、権威に阿らない強さ、創造性の豊かな生き方こそ見習うべきである。恋愛やセックスのあり方ばかり見習う今の日本社会は、色キチ無気力社会への堕落退廃の道を確実に歩んでいる。こういうヒンドゥーやムスリムのようなことを言う日本人は少ないと思うがあえて苦言を呈したい。

そんな理想と現実の矛盾やギャップの多い社会のせいか、最近は「自分探し」が好きな若者が多い。自己開発セミナーがはやるのもそのせいだろう。占い師の所にもそういう鑑定客がしばし訪れる。それが顧客ニーズだと言ってしまえばそれまでだが、霊感なき霊能占い師や癒し系のエセ占星術師をはびこらせる原因にもなっている。

努力と忍耐は嫌いな癖に、意識の上で「ピカリと光る自分がある」と妄想する態度は実に愚かしい。本当の自分とは何かを探そうと妄想している自分こそが、実は本当の自分なのだということになぜ気づかないのだろう。そのことに気づいていない、というより傷つくのが怖くて見たくないのだ。だが、等身大の自分を直視することを嫌がる限り、開運と言う名の女神は絶対にやってこない。それに気づかせるのも占い師の重要な役割だ。夢を持たせ励ますのはいい。しかし、妄想を煽り立てるのはよくない。良薬は口に苦いのである。言葉ではその言葉に共鳴する人でも実際に良薬を飲ませようとすると拒絶反応を示す。

占術では同じ法則であるのに、吉凶が人によって異なる出ることがある。一般的に姓名判断では9格、19格は極端な数として良くないとされている。しかし、その極端さに耐えうる大きな器をもっている人物ならそれは類希な才能を表す。周易でも、沢風大過の卦がでたからと言って、その大きすぎる負担に耐えぬける逞しい人物なら必ずしも悪くない。その他、四柱推命でも風水でもインド占星術でもそのような事例はあまたある。しかし、そのような人物は実際のところ稀でありやはり一般法則は多くの場合当てはまる。

中小企業経営者が大企業のような経営をすることを戒めるキーワードに、「身の丈経営」という言葉がある。私が好きな言葉だ。中小企業が大企業が行うような管理、開発、設備投資、財テクをしたら固定費負担に耐えられなくなって破綻する。そんな簡単な原則も分からずに見栄と憧れから大企業の猿真似をする中小企業経営者の何と多いことか!そこから経営破綻が生まれる。中小企業は小さくとも大企業ができない、あるいは参入しない隙間(ニッチ)の事業分野を見つけて、そこに活路を見出すのが本筋だ。それで多くの利益を得ている中小企業は少なくない。

人の生き方も開運も同じである。命理の示す自分を深く自覚してそれにあった人生設計をすればよい。よその花はきれいに見えるかもしれないが、他人の生き方を真似してはいけない。できないことを無理にやる必要はない。それが身の破綻の源になる。自分の特徴と器を生かした「身の丈人生」を送ればよい。本当の個性尊重とか独立自尊とはこのことを言う。人間の幸せは、自分の器より大きすぎることも小さすぎることもない生き方の中にこそある。
この記事のリンク | 人生運命雑感 | comments(2) | trackbacks(0) | top↑ |
占星術は科学か?
早稲田の大槻教授は怪しげなオカルトに対する強い批判主義者だ。その彼が占星術に対してはたわいもない内容の術としてあまり批判をしてこなかった。それが聖紫吹なる女性占星術師が書いた「占星術の科学」という本を読んで、彼女が占星術を科学と主張していることにカチンときたらしく、その本の内容について痛烈な批判を始めている。

私も現段階では占星術を科学であると主張する気はない。統計学というわけでもない。統計というにはあまりもサンプル数が少なすぎる。占星術の一つの技法を実証するために1000を超えるサンプル数を集めるのは殆ど困難な作業だと思う。そういう視点で見るならば、占星術は現段階では経験則に基づく一つの仮説にすぎないという程度だろう。しかしそういうことを言ったら、およそ哲学、歴史等の人文科学はもちろん、社会学も政治学も経済学等の社会科学だって実験という作業ができない以上、科学ではないことになる。つまり彼は単に偏狭な科学技術万能主義者というべきだろう。

占星術の理論的根拠は天空の動きと地上や人間の内面に対応関係あると信じることから始まる。そんなことは科学的に証明されていないと氏は主張する。天地合一説、梵我一如という説は、ある種の宗教思想に基づく考えで、それが科学的に実証されているわけではない。そういう因果関係が存在するだろうと思いたい人間のマインドの問題にすぎない。それを信じる人間と信じない人間がいるだけである。むしろ思想信条や個人の価値観に属する問題である。

そもそも大槻氏の聖紫吹氏に対する批判内容を読むと、占星術の内容について無知な点がめだつ。ずいぶん見当外れのことを言っている。5000年前と今では太陽と天体の位置はずれているから根拠がないと言っているが、占星術は地球の歳差運動を考慮して、西洋占星術ならトロピカル方式、インド占星術ではサイデリアル方式を用いて位置調節をしている。太陽の位置で性格などわかる筈がないと言っているが、もともと占星術では太陽だけで性格や運命を見ていく技法など存在しない。近代になって商売上手な占星術師が、庶民受けするために作った簡便占いにすぎない。それは本来の占星術ではない。占星術は満月の日に万人が犯罪を犯すなどとも主張していない。日食、月食、月の満ち欠け等もそれだけをもって絶対視しているわけではない。日食、月食の作用について懐疑的な占星術師は少なからずいる。そのような極端なことを主張する占星術師ばかりではない。

彼の言う通り「科学の基本は観察と測定」である。それなら、占星術の技法の適用する研究プロセスも観察と測定を基本においている。真摯な占い研究者なら誰もが実証、検証を重視している。誰が占っても繰り返し同じ結果のでる法則を見つけ出そうとしている。ただ占いという対象の性質上、細かく層別してサンプルを集めることが困難なだけだ。揺らぎを排除できるほどのサンプル数を集めることは不可能に近い。だから私は占星術を科学とは言わない。しかし、決して無視できない経験則と言うことにしている。

批判をするなら、ミッシェル・ゴークランのようにまず占星術の基本理論の理解から始めるべきだろう。彼の批判は占術業界内部でも問題視されるような、モラルに欠けた占い師の言動だけを意図的に取り上げている。科学に大切な観測の前の観測データの集め方に主観、偏りがある。そういうのを科学的態度とは言わない。それによって占星術そのものを全否定しようとしている。内容をよく知らず思い込みだけでピント外れ、的外れの批判をしている点が実に目立つ。

私は彼のオカルト批判や霊感商法への厳しいい態度は、精神世界や占術業界を浄化する意味で一定の評価をする。詐欺まがいの行為やあまりにも無知、非常識な輩は断罪してよい。しかし、彼は逆の意味での主観、思い込みが強すぎる。そこまでむきになって超常現象を否定することはない。

彼は本当の所、オカルトには異常な関心があると思う。しかし、同時に、自分の学んだ科学常識に反する現象が生じると、今までの自分が壊される強い不安感に襲われる人でもある。この人、何か奇跡を目の当たりにすると、案外今度はころっと信奉してしまうようなタイプだと思う。世の中には科学だけでは割り切れない未知の現象がまだまだたくさんあることは、事実である。科学以外のことに価値を見出すことも、人生を豊かに膨らませるためには大切なのだ。
この記事のリンク | 人生運命雑感 | comments(2) | trackbacks(0) | top↑ |
インド占星術から人生を思う(1)
西洋占星術は心理プロセスを細かくみていくのはいいが、今一つ結論が曖昧な印象をもつ。これは別に西洋占星術の否定ではない。西洋占星術において近代に開発されたハーモニクスやハーフサム等の技法を活用し、何枚もチャートを重ね合わせると確かな結論は出る。西洋占星術でも古典はきちんとした体系をもっている。しかし、モダンは外惑星を取り込んだ時点で、いろいろ複雑な要素を取り入れる事になり曖昧なものになったのだろう。だが、西洋占星術はその曖昧さを克服する為に、新しい手法の開発努力が行なわれている。インド占星術は古代よりその体系が確立されているので新しい手法はなかなか開発されない。そういう意味で、現代西洋占星術の今後の進歩に期待したい。

一方、インド占星術は明快な答えを短時間の内に出す。インド占星術は性格的な面はあまり見ないが、吉凶については実に明確な結論を導き出す。運命変化の時期、健康状態、結婚相手の傾向等々ズバリの答えを出す。ダシャーの切り替えに伴う運命変化など驚くばかりである。これを見る限り、我々の人生というのは生まれながらにプログラムされてきて決まっているものなのかなぁと思う事がしばしばある。それじゃあ、我々の人生って一体なんだろう。我々愚かな人間は喜怒哀楽の伴う人生の中でさまざまな事を学び、気づき、魂の浄化と向上に向けて永遠の旅をするのだろう。
この記事のリンク | 人生運命雑感 | comments(0) | trackbacks(0) | top↑ |
| 1/1PAGES |