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世界最古の占星術

たかが占星術の歴史と思うかもしれないが、そこには実に深い「豊饒の海」がある。占星術の一部であるナクシャトラやその中国版である宿曜道をだけをとっても諸説がある。これを学術的に研究しようとしたら職業占星術師では手に負えない。占星術師と占星術史家とは専門分野を異にすると思った方がいいだろう。ナクシャトラ一つを例にとっても、一般的にはインド占星術ならびに天文学で使われる27もしくは28の星宿と定義される。中国に渡り二十七宿となり、さらに宿曜道と名を転じた。そして中国にはそれとは別系統の陰陽五行に基づく28宿がある。一般的にはそうだろうと思うが、これが専門家の手にかかるとまた諸説がでてくる。しかしここでそれらを論じる気はない。前述の通り、占星術の歴史の研究は歴史家に任せた方がよい

一般的には占星術の発祥の地はメソポタミア地方とされている。でもインド人占星術家は世界最古の占星術はインドだと頑強に主張している。確かにインドの諸文献を参照すると(直接読んだわけではないが)、解説書を読む限りにおいてはよくそのように書かれている。インド占星術をよく知ってくると、占星術の発祥はインドかもしれないと私も思う。そこでメソポタミ地方が占星術の発祥の地とうかつに書くと、大変熱くなるインド占星術家もいる。でも「科学としての歴史学」となると、文献、考古学的裏付け、年代の証明等が必要になる。それなら、現時点ではメソポタミヤ地方にならざるを得ない。但し、近未来でそれが証明されれば歴史は書き換えられる可能性はあるだろう。それが学問的に立証されない内は占星術は発祥の地はメソポタミア地方と書かざるを得ない。それだけの話で、インド占星術を軽んじているわけでも歪めているわけでもなんでもない。

ある歴史家に言わせると、インド人には歴史概念がないとまで言い切っている。歴史概念がないわけではないだろうが、転生輪廻を信じる宗教的理由からか、あまり細かい時間の記述には乏しいというか拘らないところがあるのは確かなようだ。(私はインド史の専門家ではないのでそういうしかない)たとえば釈迦の正確な生年も複数説がありはっきりとは分かっていない。そのために占星術の古文献等は残っているらしいが、それがどの年代かはっきりしないらしい。しかしそれが考古学的に検証できない内は、インド占星術が世界最古とという主張は、残念ながらアカデミズムで市民権を得ることはない。

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ルネッサンスと占星術(1)
ウルバヌス2世は1095年11月にクレルモンで行われた教会会議(クレルモン公会議)で聖地エrサレムの回復を提唱した。これより十字軍の聖戦が始まった。十時軍による遠征は当初の目的に沿って考えれば完全に失敗であった。なぜなら、結局、エルサレムにキリスト教国を維持することができなかったからである。だが、その代り、ヨーロッパ人は東方の優れた文明の刺激を受け、これがやがてルネッサンスへとつながることになる。当時の東方の優れた文明とは、一つはビザンチン帝国に代表される「ヘレニズム文明」であり、あと一つは「イスラム文明」である。

ルネッサンスはヨーロッパにとって地中海文明の精髄を学び取ることであった。ルネッサンスというと一般的には「文芸復興」と訳されるように、ペトラルカ、ボッカチオのような文学、ボッティチェッリに代表される宗教画から解放された自由な人間性の発露を謳歌した絵画を連想する。しかし、一方でイスラム教徒が蓄積した優れたアラビア科学が伝わり、その最新知識と技術にきらめく最先端の文明をヨーロッパ人は熱狂的に取り入れた。ところがその中に、占星術と錬金術が入り込んでいたのである。自然魔術、魔術的ルネッサンスと呼ばれる一面である。

ヴィーナス誕生
ヴィーナスの誕生(ボッティチェッリ作)

占星術はヘレニズム世界で大成し、ローマ世界でも広く研究された。ところが西ローマ帝国崩壊後、ローマ世界の伝統はいったん頓挫する。中世ヨーロッパは、北方の蛮族ゲルマン人の侵入とキリスト教の台頭でそれまでとは違う文明が生じる。やがて占星術はキリスト教会の弾圧にあって衰退していくのである。代わりにそれを継承したのはビザンチン帝国であった。やがて7世紀にイスラム世界が登場し、占星術はそこに吸収された。占星術は天体観測に伴う航路・陸路の発展という実用技術を取り込んで大いなる発展を遂げた。

ヨーロッパ人が再び占星術の存在に気づくのは12世紀になってからである。当時、イスラム圏であったスペインやシチリアでイスラム教徒に接触し、彼等から占星術を学んだ。13〜14世紀になってから、ヨーロッパ社会では占星術の研究は、錬金術とともに盛んに行われるようになった。この占星術がヨーロッパ社会で衰えをみせるのは、17世紀科学革命と言われる精密な観測を基にした実証科学が発達してからである。それとともに占星術師のパトロンであった貴族階級の没落が大きく原因している。
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インドとギリシャの文化交流〜ヤヴァナ・ジャータカ〜
インドとギリシャの文化交流が始まるのは、アレクサンダーがインダス河畔から引き返した後から始まる。チャンドラグプタがマウリア王朝を作ってからである。ギリシャの使節メガステーネスは紀元前300年頃チャンドラグプタの宮廷を訪問している。紀元前150年頃にバクトリア地方のギリシャ植民地の支配者メナンドロスと仏教徒ナーガセ−ナとの有名な対話の記録が、「ミリンダ王の問い」として仏典に記録されている。

紀元後1世紀後半に発見された貿易風に乗って、地中海の商人達は紅海、インド洋を経てインド西海岸に容易に来れた。こうした地中海とインド洋の交易がもたらした文物の中に、ギリシャ占星術と天文数理学があった。それまでのインドの占いは月の星宿に関するものだけであり惑星の位置には殆ど関心が向けられていなかった。しかし、西方からもたらされたホロスコープ占星術は、惑星の位置計算のために数理天文学の知識が必要であった。そこで占星術とともに数理天文学もヘレニズム世界からインド世界へと伝えられた。

こうしてできあがったのがインド占星術の古典の一つ、「ヤヴァナ・ジャータカ」である。この書物はもともとはアレクサンドリアでヤヴァネーシュヴァラという人物がギリシャ語で書いたものを、紀元15年頃にサンスクリット語に翻訳したものである。その内容はまさにギリシャ古典占星術そのものである。

西方から伝えられた占星術はその後インド的色彩を加えられて、複雑な体系となった。しかし、インド占星術はギリシャ古典占星術の体系を現代に至るもすっと保持し続けている。6世紀中頃に、バラーハミヒラによって集大成された「占術大集成」(ブリハット・サンヒター)はインド占星術と雑占いの集大成された古典としてつとに有名である。
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