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世界遺産に登録されなかった「古都鎌倉」
占術、占星術と関係はないが、「歴史好き」として、「日本文化を愛する者」としてとても残念なことがあったので、連休ということもありあえて書き込んだ次第である。

富士山が世界遺産に決まった。それはいいが鎌倉は不登録となった。歴史好きの
私としてはこの決定は非常に不満だ。鎌倉は確かに社寺が中心でアピールする力が弱かったようだ。同じ古都でも京都、奈良に比べると知名度は低い。奥州平泉は一度は落ちたが、「黄金の都ジパング」の発信源であり、外国人にはこちらの方がむしろ分かりやすいかも知れない。要するに鎌倉はあまりに地味で海外で理解されなかった。でも鎌倉が地味なのは当たり前だと思う。鎌倉は質実剛健の武士の古都。そこから名を惜しみ、名誉を重んじる日本固有の武士道文化が生まれたのだ。宗教をもたない日本人に、恥、名誉、忍耐、質実剛健という行動規範を与えたのは明らかに武士道。ある意味で鎌倉の否定は日本文化の否定につながる

でも諦めることはない。今後も粘り強く臆することなく、世界を相手に啓蒙活動を続けるべきだ。必ず理解される。武士道はかつて新渡戸稲造によって海外に紹介され高い評価を受けた。禅仏教は日本人僧鈴木大拙によって紹介され、その精神文化の価値は世界で認められている。夏目、三島、川端、谷崎の日本文学は海外でも広く読まれている。日本文化だから外国人が理解できない、受け入れないというのは早計だ。

鎌倉は今後とも海外に向けて大いにロビー活動を続けよ。誇るべき日本文化を海外に理解させるには、謙譲の美徳は必ずしもプラスにならない。粘り強く厚かましく駆け引きを駆使して目的を貫徹すべし。逆説めくが、そのためには日本人に欠けている「説明力」と海外発信する「英語力」を大いに身につけよう。映画などを見ていると、アジア関係の場面の時に、辮髪の男が着物を着て寿司を食べ、後ろにランタンと椅子があるというようなシーンによく見かける。一般の欧米人は日本と中国の違いも分からないのだ。そんな中で日本伝統文化の差別化された価値を理解してもらうのはかなり難しいが、やるしかないだろう。
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インドアーリアという虚構〜植民地支配の正当化〜
今日は歴史の話をしてみたい。インドアーリアは歴史上の虚構という話である。古代インドを支配した民族は、アーリア人といってヨーロッパ人と先祖を同じくする民族であると言う話はよく聞く。日本人の多くはこの説を信じているように思われるが、この説は今日のインドでは実は否定されている。

確かにインド人の容貌を見ると色こそ黒いが、骨格は白人のそれでありコーカサイド系の血が色濃いと一見感じさせる。しかし、インドに行くと分かることだが、いわゆる白いインド人と言うのは非常に少ない。それがどういうものかテレビや映画に出る俳優、女優には白人と見まちがえるような人達が非常に多い。(日本人と同様に白人コンプレックスがあるのだろう)

面白いことにこうした現象はトルコ共和国でも同じである。トルコ人と言っても、中には浅黒い肌の持ち主やモンゴロイドに近い顔立ちの人間もけっこういる。だが、ことタレントになると金髪碧眼のトルコ人が圧倒的に多い。しかし街中を歩いている人達にをみると金髪碧眼の白い人はそう多くない。

私はデリーで町を歩く人を出口調査でもやるようにその比率を指折り数えてみたことがあるのだが、色の白い人は5%位であとはみんな色が黒かった。北インドでもその位だから、南インドに行ったら殆どが黒い人達だろうと推測する。その白い人達も大部分はかなり後の時代になってイランからやってきた人達である。

歴史教科書では一般的にこう書かれている。紀元前1500年前にイラン・イラク方面からコーカサイドの騎馬民族系のアーリア人がやってきた。彼等は人種的にはヨーロッパ人と同じで白色人種であった。もともと中央アジアで遊牧生活を送っていたといわれるアーリア民族の一部がアフガニスタン経由でインドに侵入し、また別の一部がイランに侵入した。インドに侵入したアーリア民族は、騎馬と弓矢という卓越した軍事力をもち、当時インドの先住民だったドラビダ族を征服する。彼等はドラビダ族などインドの先住民族に対して肌の色や言語、宗教などによって区別し、自分たちの優越性を主張した。それがカースト制度の起源であると言われている。       

しかし、このような説は言語学以外に裏づけのない神話であるというのが、今日の新しい学説である。インドアーリア説は近年になって言語学を初めとする各分野から科学的な反証が行われ、アーリアン学説自体がその信憑性を大きく失いつつある。明確にアーリアン学説を疑似科学であると厳しく批判する学者が大勢を占めた今日では、半ば棄却された仮説である。

インドアーリア人説の起源とは以下のような経緯から生じている。
当時のヨーロッパの言語学者達は、サンスクリット語の文法がギリシャ語やラテン語と同系統であることを発見し驚愕した。そして1786年に、東インド会社で働いていたイギリス人、ウィリアム・ジョーンズが、サンスクリット語がヨーロッパ諸語と祖先を同じくする言語だという説を発表した。この説が言語学だけにとどまらず、民族移動の歴史へと拡張されてしまったのである。その結果、ヨーロッパでは、優越民族としてのアーリア人という神話をもたらし、インドではカースト体制を再補強するイデオロギーとして機能したのである。ナチスドイツのアーリア民族優越説もここ起源がある。

そして1859年に、ドイツの言語学者マックス・ミュラーはリグ・ヴェーダを翻訳したが、それを契機に、インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言葉を話していた住民は共通した民族意識を持ち、彼等がインドからヨーロッパにまたがる広い範囲を征服して自らの言語を広めたのだという説を主張するようになった。

この理論はイギリスとドイツで特に盛んに主張されたが、イギリスの場合はイギリスのインドの植民地支配の正当化のために利用された。インドはもともとヒンドゥー教徒が支配していた国であり、ヒンドゥー教徒の支配階級であるアーリア人という名の白人であった。イギリス人はそのアーリア人ともともとは同じ民族であると主張する事で、自己を支配者として正当化しようとしたのである。

しかし言語体系が近いことが即民族が近いことへの証明にはならない。それならば、英語を使用するイギリス人とジャマイカの黒人は同じ民族ということになるではないか。今日までに分かっている考古学、人類学、DNA分析が示す科学的事実は、このような説にまったく反している。言語の分布は、必ずしも民族の移動と合致するものではない。血液型の分布指数はインド人とヨーロッパ人とはもっとも遠い数値を示している。

インダス文明
インダス文明の遺跡群

リグベーダでは征服された劣等民族として描かれているドラビダ族は、紀元前3500年ごろメソポタミアのイラン高原からインド北西部に移住してきたと考えられている。人種的には黒色人種(ネグロイド)に属すとされている。だがいろいろの考古学的遺跡の事実にもとづくならば、彼等ドラビダ族こそがインド最古の文明であるインダス文明の主たる担い手であることが分かってきた。こうした事実はリグベーダの記述と明らかに矛盾する。
 
インドで発見されるさまざまな遺跡は大部分がインダス河とその支流のサラスバティー川岸からのものである。それに基づけば1500年ごろのインドへのアーリア民族の進入したと言う証拠はなにもない。インド人の祖先は外からきたものでなく、白人的な骨格の人達も含めてもとからインドにいた人達と考えられる。色の白いインド人は例えばパールシィー(インドのゾロアスター教徒)のように、かなり新しい時代になってからイランから移民してきた人達なのである。  
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インド占星術と西洋占星術はどちらが古いか?
インド占星術と西洋占星術はどちらが古いか?とはよく議論になる事柄である。これについてはインド側と西洋側でしばしば論争がおこなわれている。歴史をイデオロギーではなく科学的な立場に立って見るならば、客観的証拠を示すある文献が発見され、言語学的に解読され、その年代が考古学的にも確定されればそれが正しいということになる。その意味では現時点では、下記の記述が占星術史上では一般的には正しいとされる。

インド占星術と西洋占星術に共通する12星座という天空分割システムが成立したのは、紀元前500年前後のメソポタミアである。この最初に登場した12星座は、黄道近くに存在する恒星を目印とした星座の分割方式で、この分割方式による12星座を『サイデリアル12星座』と言う。そして紀元前4世紀後半、インド北西部からメソポタミア、ギリシャ、エジプトまでの広大な領域が、マケドニアのアレキサンダー大王によって統一された。それにより東西文化の活発な交流がおこなわれ、メソポタミア起源の占星術がギリシャの天文学と結びついたのである。その結果として古代ギリシャに、サイデリアル12星座とホールサイン(星座=ハウス)によるギリシャ占星術が成立した。その後、紀元前160年頃にヒッパルコスによって春分点の後退運動が発見されてから後、やがて春分点を牡羊座の0度とする『トロピカル12星座』という概念が登場する。

ギリシャからインド北部までを征服したアレキサンダー大王の死後、ギリシャを中心としたへレニズム文化はメソポタミアのパルティア王国にも受け継がれ、226年にパルティア王国がササン朝ペルシャ王国によって滅ぼされた後も、インド・メソポタミア・ヘレニズムの交流は続くのである。

しかしインド占星術では、現在でもサイデリアル12星座とホールサインの古代占星術のシステムが使われている。おそらくギリシャ古典占星術がトロピカル方式を採用する前の段階でインドに伝わってきたものと思われる。従ってインド占星術は、ギリシャ占星術で発達した古代占星術のシステムがそのままインドに伝わり、インドで独自に発達した『27ナクシャトラ』という天空分割システムと統合することによって、ギリシャ占星術とも異なる、インド独自の占星術として発展してきたものであると言えるのである。しかも古代占星術の内容を忠実に今日まで伝えるものである。

しかし、こうした一般的な歴史概念を覆す記述が実はインド側にある。「あるヨギの自叙伝」(パラマハンサ・ヨガナンダ著)の中に驚くべき記述がある。

学者たちは古代インドの文献の中にある星学的記述から、その著書の年代を突きとめることができた。いにしえの聖賢達の科学的知識は実に偉大なものであった。カウシタキ・ブッラマナには紀元前3100年頃のインドの星学が極めて進んだものであったことを示す詳細な記述があり、当時これによって吉日が選ばれ占星上の儀式が行われていた。1934年のイースト・ウエスト誌は、ヴェーダの星学に関する論説ジョティシュについて述べている「ヴェーダには、インドをして古代諸国の先進国とし、又知識の探究者達のメッカたらしめた科学的諸説が含まれている。ジョティシュの論説の一つプラッグマダプタには太陽系における太陽を中心とした惑星の運行、黄道の傾斜、地球が球形をしていること、月の光が反射光であること、地球の自転、銀河系における恒星の存在、引力の法則、その他西欧においてはコペルニクスやニュートンが現れるまで明らかにされなかった各種の科学的事実が取り扱われている」

この記述の通りだとすれば、占星術の発祥地はインドと言う事になり、星の運行を正確に計算する為に発達した数学、天文学も先端をいっていたことになる。しかしそれを結論づけるには、カウシタキ・ブッラマナという古文献そのものの記述の確かさを検証しなければならないだろう。この作業そのものは歴史学者、考古学者、言語学者等の研究に委ねた方がよい。占い師が想像力と自己顕示欲を膨らませて中途半端な法螺を吹くべきではない。

現在、インド占星術の公開文献は全体の2割位と言われている。実際に、インドの各ヒンズー寺院には未公開文献が山とありある意味で占星術研究のための宝庫である。今後新しい発見や研究が進めば、従来の通説が覆る可能性が十分にあると言うことは、最低限言えることだろう。
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ガネーシャ神
ガネーシャはインドで最もポピュラーな神様である。インドばかりでなく東南アジアでも人気がある。インドに旅行に行ってお土産屋さんに立ち寄ると、まず目につくのがカネーシャの神像である。別名をガナパティとも言う。元来は障碍神であったのが、やがて障碍を司る神から障碍を除去する善神へと変化した。占星術的には「火星」の守護神である。

ガネーシャは象の頭をもつユニークな神様である。誰一人とし知らない人はいないだろう。あらゆる障碍を除くことから、インド人の庶民信仰を一手に集める人気の高い神様である。新しい事業などを始めるにあたってよいとされている。また、除災厄除・財運向上でも信仰を集めている。学問、医学、占星術の神でもあり、学問の効果をあげるにも霊験あらたかである。宗教上の儀式を始めとして、あらゆる物事の開始時には、まずガネーシャに祈りを捧げることが良いと言われている。

ガネーシャ
ガネーシャ神


ガネーシャは破壊神シヴァとその妻パールヴァティーの間に生まれた長男とされる。どうして象の頭なのかについては諸説がある。シヴァとパールヴァティが象の姿をして交わった時に生まれたので象の姿になったという説もあるが、確かなものではない。アーリア人がシヴァ系の宗教を携えて南下し土着の民族と衝突した時、融和の為にドラビダ系のガネーシャ系の宗教を、自らの教義体系に取り込んだ。ガネーシャ神はその際の解釈である。従って、ガネーシャはシヴァ系のヒンドゥー教の一部となっている。

ガネーシャはヒンドゥー暦のバドラパーダ月の4日(新月から4日目)に生誕したとされるので、これに合わせて生誕祭が行われる。生誕日から10日間の祭りを行うが、その間に障碍除去を祈念してガネーシャの像を祀り、最後にガネーシャの像を川や海に流すことで厄除を祈願する。

ガネーシャは火星の守護神である。占星術の上で火星の傷つきの大きな人は、ガネーシャを称えるマントラを唱えると火星の大いなる功徳が得られると言われている。カネーシャを称える代表的なマントラに、以下のものがある。

Aum Shri Ganesha Namah オーム シュリ ガネーシャ ナーム

マントラとは、心を意味する「マン」に、道具を意味する「トラ」が付け加えられた言葉である。直訳すると「心の道具」という意味になる。マントラは、音の波動が重要であるといわれ、正しい発音で唱えることが重要である。正確なサンスクリット語の発音によりマントラを唱えることのみで、古代インドの「音声学」上の効果を最大限に得ることができる。マントラは、物質的な欲望に流れるやすい心を制御する作用があるとされている。チャンティングとは、このマントラを繰り返し唱えることにより、心を制御する方法でもある。結果として、ガネーシャ・マントラは、あらゆる試練や困難を取り除き、帰依者たちに種々の恩恵を与えることができる。

マントラを唱えるには作法がある。まず、手足を洗って清潔にしてから坐り、数回の調息を行ってからマントラを唱える。108回、又は念珠の1周分もしくはそれ以上の周回分を唱える。これを一つの単位として毎日唱え、2万回に及ぶまで続ける。108という単位は、わが国で大晦日に108回の除夜の鐘を鳴らすのと同じ系統の考え方である。インド人に108回の除夜の鐘の話をしたら、えらく関心を示したことを覚えている。ガネーシャのマントラは、あらゆる悪・障碍・悪霊を退け、財産・智慧・成功をもたらすとされる。ガネーシャ信仰は日本にも入ってきて、歓喜天と呼ばれて、真言宗、天台宗で天部の護法神として信仰されている。
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古代インド(1)〜インダス文明〜
インド占星術と西洋占星術の違いの一つに、宗教との関係がある。西洋占星術がキリスト教会と対立、迫害の歴史をもつのに対して、インド占星術は宗教、芸術、医学、占星術、哲学思想、社会規範等々が統合化された文明の一環という側面をもつ。わかりやすく言い換えると、ベーダ思想を中心に、ヨーガ、アーユルベーダ、ジョーティシュ(インド占星術)、マントラ、パジャン(詠唱)、仏教美術等々が渾然一体となった一つの統一された文明形態である。従って、インド占星術を深いレベルで理解するには、ベーダ思想を始めとするインド文明の理解が不可欠である。

インド思想及びインド文明の中核に位置づけられるベーダ思想の成立は、古代インド社会の形成と関わりをもつ。従って、インド占星術の理解の為には、古代インドの歴史をよく理解した方がよい。インド文明は西洋、イスラム、中国と肩を並べる大文明圏の一つである。

インド連邦の人口は2005年には11億人を突破した。この他にパキスタン、バングラデシュ、ネパール、スリランカ等のインド文明圏の国々を加えると、2007年の国連推計人口で16億人となる。これは全ヨーロッパの人口の2,5倍以上となり、面積もロシアを除いたヨーロッパとほぼ等しい。世界人口は2007年アメリカ合衆国統計局の推計で60億人になるので、世界人口の約4分の1に達する。この数字からはEU諸国の少子高齢化現象と発展途上国の人口爆発の傾向がうかがえる。

又、人種的にはコーカサイド、モンゴロイド、ネグロイド等世界中の人種がほぼいるのである。言語も実に多岐に亘る。共通語であるヒンディー語だけでも2億人の使用人口がいる。この他の主な言語に、ベンガル語、グジャラート語、パンジャブ語、テグル語、タミール語等がある。こうした多岐にわたる言語があるため、インドは独立後も英語を共通語として使用せざるを得ないのである。

インド
インドの言語分布

古来インドには多数の諸民族が往来定着し、多くの文化が栄えた。インド文化形成の主導的役割を果たしたのは、アーリア人である。しかし、そのアーリア人がインドに侵入する以前に、古代インドではインダス文明が栄えていた。ムンダ人種、ドラビダ人種、モンゴロイド人種がすでにそこ住んでいたのである。紀元前3000年から1500年頃にわたってある民族が、整然としたある計画のもとにインダス流域に諸都市を建設し、銅器文明を成立させていた。モヘンジョダロ、ハラッパー、アムリ、ロータル等、インダス河流域とアラビア海沿岸わたるインド・パキスタン両国をまたがる地域に一つの文明が栄えていた。

このインダス文明が滅んだ原因はいくつか挙げられている。最近になって言われいる説は「環境破壊説」である。遺跡から見られる限り、そこの建造物は大量の煉瓦によって建てられている。その煉瓦を焼くために森林の伐採を続けた結果、環境破壊を招いたという説である。しかし、通説として有力なのはアーリア人の侵入である。前1500年頃に遊牧民であったアーリア人がイラン高原からパンジャーブ地方に侵入し、後にガンジス川流域の先住民を支配して定住生活に入った。アーリア人は、バラモン階級を頂点としたカースト制度による社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を今なお規定している。彼等は優れた鉄器をもち馬を乗りこなしたと言われている。アーリア人の優勢な軍事力の前に平和に暮らしていたドラビダ民族はなす術がなかったらしい。モヘンジョダロは完全に破壊されてしまった。

インダス文明の都市はどれも、城塞部と市街地に分けてつくられていた。道路は、碁盤の目のように整然と町をつらぬき、排水溝を備えている。その代表都市モヘンジョ・ダロもそうした特長を備えている。そこは北西側が城塞部に、東側が市街地で構成され、道路や建物には多くの焼き煉瓦が使用されていた。

モヘンジョダロ

古いの地層には、今から4〜5000年前の文明の跡もある。インド古代の叙事詩「ラーマーヤナ」に登場する戦場の名前でランカという町があるが、そのモデルはモヘンジョダロではないかという説を2,3の考古学者は唱えている。デリーの年代学研究所の S・B ロイ教授は、インドの古代叙事詩「リグ・ベーダ」に書かれていることの大部分は事実であると主張している。「リグ・ベーダ」に描かれている戦いは、紀元前2030年頃に起きたとされ、戦いの場がモヘンジョ・ダロであった可能性はとても高いと言う。

インダス文明はアーリア人によって完全に破壊されたしまったが、インダス文明の影響は、今日のインド文明の中に残っている。遺品から推定されるインダス文明時代の生産様式や生産手段は、今日のインドのそれと殆ど同じである。インダス文明は都市の文明である。都市の文明はアーリア人によって滅ぼされても、後背地の農村の文明はそう簡単には滅びない。彼等は何千年にもわたってほぼ同一の思考様式、生産様式を維持してきたのである。新たに侵入してきたアーリア人も統治の為に、インダス文明遺産を積極的に取り入れてきた経緯もある。

かつて先住ドラビダ族の家族制度は母系社会であった。親子関係や相続は母方の系統に従って認められた。父は何の意義ももたず名前すらも明らかになっていない。この習慣はかなり後期まで続く。384年に中国に赴いたクマーラジーヴァのある弟子は、「天竺にては多くは母の名を以て子に名づく」という記録を残している。現代のドラビダ社会は母系制ではないが、古い時代はそうであったらしい。

インド占星術において、母親が4室の象意であるのは、こうした社会背景からくるものと推測できる。有名なインド占星術の聖典、「Brihat Parashara Hora Sastra」がいつ書かれたについては、実は諸説がある。現代のものに比較的近い形は、6世紀後であるという。しかし、それは新たに編集された文章化されたもののことである。実質的には、はるかそれ以前に存在した。長く口伝で伝えられたものである。だから、インド占星術の原型が出来上がった当時は、インドまだ母系社会であったと推定できる。

ドラビダ人は同時に女神崇拝、性器崇拝、蛇神及び樹木崇拝の習慣をもっていた。支配者のアーリア人当初はこれを嫌悪、蔑視していたが、混血がすすむにつれてシバ神崇拝の中に摂取され容認されるに至った。ヒンドゥ教の民間信仰にもこれは生きている。蛇神信仰の変形である龍神信仰は、仏教とともに日本へも伝わった。

ドラビダ人が完全にアーリア化することはついぞなく、逆にアーリア人の使うサンスクリット語の中に、ドラビダ人の言葉が入り込む現象さえ起こった。中国において北方騎馬民族が中原に進出して漢民族を政治的軍事的に支配しても、やがて漢化されてしまう現象と似ているかもしれない。


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