Astrological Academy


CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>
CATEGORIES
ARCHIVES
賀川豊彦(1)〜日本のシュヴァイツァー〜
日本のシュヴァイツァーと称えられる賀川豊彦の占星術的分析をしてみたい。しかし残念なことに賀川豊彦の名を今日知っている日本人は少ない。だが彼は日本近代史上きっての社会事業家であり、一部の人々からは神の心をもった聖者と称えられている。彼にはいろいろな毀誉褒貶がある。だが日本の労働運動、農民運動、協同組合運動、社会主義運動をキリスト者の立場から支えた功績は大きい。彼の功績は海外からも高く評価されている。その意味で、占星術的分析に入る前に彼の生涯を簡単に紹介したい。

賀川豊彦は明治21年(1888)7月10日、父賀川純一と芸者との間で次男として生まれる。幼くして両親を失い徳島の本家に引き取られる。みなしご、妾の子と蔑まれて幼き心を傷つけられた賀川は、マヤス宣教師夫妻と出会う。彼をキリスト教へと導き暖かい保護者となったのはマヤス宣教師夫妻であった。そして明治37年(1904)2月に洗礼を受けキリスト者として生きることを決心する。

明治42年(1909)12月24日、当時既に胸を病んでいた賀川豊彦は神戸市葺合新川の貧民窟に入る。ちょうどクリスマスの前日で、荷車にふとんと衣類4~5枚と書物をもっての引越しであった。医師から長く生きて3年と言われた賀川は、当時の神戸神学校の観念的議論に飽き足らず、死ぬまでにたった一つでも善いことをしようと思い、貧民屈での伝道を決意する。

だが貧民屈での生活実態は予想外に酷いものだった。貧困、病苦、犯罪者、売春婦等々あらゆる人生の悲惨さを、賀川はここで目のあたりに見る。そして大正9年(1920)年10月に、その貧民屈でのさまざまな苦い経験を綴った自伝小説「死線を越えて」 を書き発表する。それは人々の共感を呼び一大ベストセラーとなる。それにより賀川豊彦は社会事業家としての名声を不動のものにする。その印税がその後の彼のさまざまな社会運動の活動資金となるのである。

賀川豊彦
若き日の賀川豊彦(wikipediaより)

大正2年(1913)、女工の芝ハルと貧民窟で出会い、1913年に神戸の教会で簡素な結婚式を挙げる。ハルは15歳で下女となるために上京した女性だった。ハルは賀川の理想主義をよく理解し生涯彼の活動を献身的に助けた女性である。

翌年、賀川はプリンストン神学校に入学する。滞米中にニューヨークでの労働運動を目の当たりに見た賀川は、やがて労働運動に身を投じていくことになる。貧民窟でのモラルの喪失はやはりなんと言っても失業からくる貧困問題が大きいというの問題意識が、彼にあったからである。

大正8年(1919)4月、賀川豊彦は、鈴木文治、久留弘三等と日本最初の労働組合である友愛会関西同盟会を結成する。労働者は一個の商品ではないと高らかに宣言し、治安警察法17条(スト権、団結権に関わる)の撤廃、8時間労働制、最低賃金の制定、社会保険制度の確立、男女同一賃金等、今でこそ当たり前だが当時としては急進的な主張を掲げた。折から第一次対戦後の不況にぶつかり、工場閉鎖と解雇が相次いだ時代であった。大正10年(1921)に団体交渉権の確立を巡って、賀川は神戸川崎・三菱の大争議の指導者となるが騒擾罪に問われ逮捕される。

賀川はもともとキリスト者であり理想主義的、融和的主義的傾向があった。それは次第に労働運動指導者達とそりが会わないものとなり、遂に労働運動と決別するに至る。

こうして大正10年の秋、賀川は杉山元治朗等とともに農民組合を結成をする。五割にものぼる高率小作料を下げるように要求した。しかし、この運動もやがて闘争方法を巡って二つに分裂する。大正15年(1926)年3月、労働農民党を結成するが、12月に左右に分裂する。賀川は権力闘争の醜い駆け引きに反感を抱き、やがて協同組合運動や神の国運動の転進する。賀川の事業で面白いのは金融恐慌に端を発して、昭和3年に庶民のための金融機関、中ノ郷質庫信用組合を設立したことが挙げられる。賀川の単なる神学者だけに終わらない地に足のついた幅の広さが伺える。 更に、昭和6年(1931)発表の小説「一粒の麦」を発表し、キリスト者としての意見を述べる。

太平洋戦争の前後では、昭和15年(1940)と昭和18年の2度に渡って反戦容疑で逮捕されている。又、中国に伝道中に個人主義的傾向の強い中国人の生活実態を見ていた彼は、中国が社会主義国になってから中国人は社会主義は向かないという発言を行なった。それが、戦後しばらく問題視されたことがあった。しかし、今になって中国の市場開放後の姿を見れば、如何に深い洞察をしていたかがわかるであろう。しかし、この時期の戦争容認発言が、賀川の業績に一つの傷をつけてしまったことは否めない。しかし、彼も人の子である。時には間違いも犯す。ただこれだけの判断ミスの為に彼の全業績が否定されるべきとは思わない。

戦後になっても賀川の活動は衰えを知らず、昭和20年(1945)11月の日本社会党の結成者の一人となった。55年体制の揺らぎが問題にされる以前は、社会党も有効な政治役割を果たしたといえよう。昭和35年(1960)4月23日、関西伝道後悪化した時、持病の心臓病の為、招天する。最後まで活動をやめなかった、72歳の劇的な生涯であった。その臨終に際しても、神へ感謝をささげながら死んでいったと身近な側近は語る。まさに聖者にふさわしい最後であったという。

賀川の生涯をいろいろ悪く言う人がいるが、私は賀川は神の如く美しい心を持った人だと思う。まちがいなく日本の誇る聖者である。彼が悪く言われるのは、キリスト者にしては社会主義者に近く、社会運動家としてはマルクス主義から遠いからである。だから両方からよく言われないのである。賀川の理想主義はキリスト者からも社会主義者からも評価されなかった。しかし、賀川が近代日本の社会運動の創始者としての功績は大きい。昭和30年(1955)にノーベル平和賞候補に推薦されたことを考えても、彼の活躍が国際的に評価されていたことがわかる。                             
賀川豊彦(2)に続く
この記事のリンク | 人物評伝 | comments(0) | trackbacks(0) | top↑ |
司馬遼太郎の時代精神(1)
司馬遼太郎氏は、国民的作家である。日本が高度経済成長を遂げていた時代に、その頃のビジネスマンや企業戦士に親しまれた作家である。最近になって、司馬遼太郎氏の作品について多くの論評が書かれているが、彼の作品への批判はいくつかの立場の違いから来ている。

現在の日本の状況は、明らかに司馬遼太郎氏が活躍した時代とはちがう。まさに成長神話の時代とはちがい、先の見えない閉塞状態のおかれている。今の日本人には彼の作品に貫かれている成長志向時代の精神は崩壊しつつある。例えば、否応なしの国際化、環境問題への関心、生活格差の拡大、失業率の高まり、官僚への不信、中国・インドの台頭等々が挙げられる。彼の作品への論評は、歴史作家の彼が生きた高度成長時代の時代精神に対する、皮肉にも歴史的批判となって書かれている。

竜馬
「竜馬が行く」
自由人坂本竜馬の視点は、我々の明治維新観に変化を与えた。

また彼が存命中に不明であった歴史的真実の解明も進んできた。それは彼の歴史認識の間違いというよりその当時の歴史知識の古さへの批判が出てきている。しかし、それは彼の欠点でなく、その当時の時代の限界ともいうべきものであろう。司馬氏は乃木希介を「坂の上の雲」の中で、愚将暗将と批判している。しかし、その後ソ連の崩壊に伴って、ロシア側の日本関係の歴史資料がかなり公開されるようになった。その結果「日露戦争」の研究がだいぶ進んだのである。それに伴い、乃木将軍の203高地攻撃の真実がだいぶ明らかになっている。現在では、乃木希介は兵の損傷を顧みず、いたずらに無理な攻撃を繰り返した愚将とは必ずしも言えないという評価を得ている。司馬氏は歴史の真実に基づいて作品を書いていない、というこのような批判は主に歴史学者から行われている。しかし、私はあえて司馬遼太郎氏を弁護したい。彼は歴史作家なのであって歴史研究者ではない。そのような立場で批判したら、歴史文学など成り立たない。

或いは、皇国史観の持主でも唯物史観の持主でもない。彼はエドウィン・ライシャワー氏に連なる近代史観の持主である。だから、相変わらず共産主義という亡霊にとりつかれている左翼評論家は、司馬氏を「戦争肯定論者」として批判しているが、的外れも甚だしい。

土方
「燃えよ剣」
悪の権化のように言われていた新撰組の歴史的再評価につながった。

司馬氏の本領は、そのようなピントはずれの批判の所にはない。彼が晩年、ちょうどバブル経済期に当る頃、日本の将来をとても憂えていた。今の日本人(これは、1980〜900年代のバブルに浮かれていた日本人の事を指す)は、かつての日本人がもっていた武士道精神のよさを失ってし まったことを嘆いていたと言われている。司馬氏は、かつての日本人がもっていた道徳規範、忍耐、責任、名誉、自己犠牲、勤勉といった価値観は鎌倉武士の尚武の気風の中から作られたという歴史認識をもっていた。鎌倉時代がなければ、日本は随分つまらない国のままで終わっただろうということを随所に書き残して いる。「世間様が見ている」「お天道様が見ている」という感度に取って代わるものを戦後の民主主義は作り上げることができたのかという問題意識をもっていた。「名こそ惜しれ」という鎌倉武士の感度こそが、日本を作りあげたという事をよく言っていたものである。

司馬氏が他界してから、まさに失われた十年の日本の動きは、第二の敗戦ともいえるくらい深刻な衝撃を我々にもたらした。司馬氏の深い洞察に敬意を表する。まさに今の日本人は、成長神話の崩壊とともに、日本人としての誇りも失った。グローバルスタンダードの美名の下で、忍耐、責任、名誉、自己犠牲、勤勉といった価値観は時代遅れな産物として葬り去られたのである。そして今の日本は、司馬氏の憂え通り、衰退の一路をたどっている。

司馬遼太郎氏は大正12年(1923)8月7日、父是定、母直枝の次男として大阪市浪速区に生まれる。本名は福田定一という。彼は天才にありがちな正規の教育面では必ずしも優等生とは言い難かったようで ある。天才独特の性癖をもっていた。幼い時から本の虫であったが、学校の成績は今ひとつであったようである。中学では学校嫌いでろくに試験勉強もしなかっ た。そのかわり大阪市立図書館に通いつめる青春をもつのである。

中学の頃、父の書斎に会った「蘆花全集」を全部読み、更に漱石、鴎外、子規と立て続けに読んで明治の時代精神というものを深く理解したらしい。江戸の精神が蒸留されて明治の心になったという名言を残している。まさにその通りである。「明治はすべて正しく、江戸時代は切り捨て御免の暗い時代だった」などと言うのは、明治薩長史観の誤った歴史認識である。いまだ明治薩長史観の呪縛から逃れられない日本人に、正しい伝統の評価を与えたのは彼の優れた所であろう。日本の近代化は、江戸時代の教育普及や技術蓄積によるところが大きいのは今日常識である。彼が国民作家となる礎はこの時代に築かれたものである。(続く)
この記事のリンク | 人物評伝 | comments(2) | trackbacks(0) | top↑ |
人物評伝(1)〜空海(1)〜
これから時々、占星術記事の合間を縫って、歴史上の人物についても語ります。第1回目は空海です。空海は密教を日本にもたらした人物として知られています。その生涯は、司馬遼太郎氏の「空海の風景」に詳しく書かれています。

弘法も筆の誤りという諺がある通り、空海は書法の達人である。唐の皇帝の前で口、両手、両足に筆をもち一気に書き上げたと言う伝説から五筆和尚とも呼ばれる。空海は一宗派の開祖にとどまらない、わが国文化の母とも言える人である。「あいうえお」「いろは歌」は彼の作という伝承もある。彼は独自の芸術観をもち文字、話し言葉、書法、空中を感得する行為はみな脈絡をもつと考えていた。「声字実相義」という書物の中で、空間、空中、宇宙につながっている世界観を五大と定め、そこで文字も音声もみな互いに響きあっている。そして十界の世界はすべて言語が備わっていると主張している。これが「五大にみな響きあり、十界に言語を具す」と言う有名な言葉である。

こうした芸術観は、宇宙に同化する行法と理論をもつ密教と相通じるものがある。

空海は宝亀5年(774)讃岐国多度郡にて生まれる。灌頂の号は遍照金剛、俗姓は佐伯直真魚という。彼の出自については面白い説があり、佐伯直という姓は本来6~7世紀頃の蝦夷の虜囚の出自であり、天才空海の日本人離れした骨太さ、庶民性、土俗性はそこからくるというものである。

空海は母方の叔父阿刀大足について儒学を学び、18歳の時大刀に伴われて都に上り大学に入学する。しかし、彼は大学を中退しこの後謎の7年間を迎える。この時彼が虚空蔵求聞持法という密教の修行法を知るに及びその実践修行の為、山野をさまよったものと思われる。求聞持法とは虚空蔵菩薩の真言を百万編を唱える修行のことである。この時のいきさつは彼が延暦12年(797)に書いた儒教、道教、仏教の三者の優劣を比較し仏教の優位性を説いた「三教指帰」の中に書かれている。「三教指帰」は日本最初の戯曲ともいえるものである。

虚空蔵求聞持法の修行の為、阿波の大滝嶽や土佐の室戸岬で修行中に神秘体験をする。弟子が編纂した「後遺告」によれば、室戸岬での修行中に明星が口の中に飛び込んできて虚空蔵菩薩の存在を感じたと伝えている。彼はそれ以後名誉や財産に対する欲望がなくなり、一切の俗世間から隔絶した生活をしようと決心したと伝えられている。「兜卒天から自分に勅命が下った」と「三教指帰」の中に書き記している。この密教は大日如来を最高理念とし根本経典として大日経がある。しかし、彼はこの経典にいくつかの不明点をもっていたらしい。これが彼をして大唐への留学を決意させるのである。 (続く)

この記事のリンク | 人物評伝 | comments(2) | trackbacks(0) | top↑ |
| 1/1PAGES |