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私の占い遍歴(1)〜伝統的日本占法〜

私は今はインド占星術を中心に据えているが、実はいろいろな占い遍歴がある。私の占い遍歴は、もともとはある偶然から大久保にある「日本易道学校」に通い始めたところから始まる。今でこそ占いを教える学校は方々にあるが、私が若かりし頃、占い学校はここしかなかった。私はここで周易、気学、四柱推命、家相、姓名学、手相、人相と習った。今日の目から見れば、江戸時代から続く典型的な日本伝統の占法であることが分かる。こう書くと気学は大正時代から始まったと屁理屈をこねる人がいるが、気学成立以前から日本に方位学があったのは事実である。その当時は占星術もそれほど盛んではなかったし、台湾経由でその後は入ってきた透派、紫微斗数、奇門遁甲等々の中国系も入ってきてなかった。タロット等ももちろんなかった。

2016年気学方位盤

他の占術ももちろん教えるけれども、易道学校という名の通り「周易」を中心に教える学校で(今はどうなっているか知らない)、周易に関しては随分時間をかけて教えていただいた。当時は讃井天祥先生をいう方が中心に周易を教えていた。易卦のそれぞれの字義や解釈は重視するが、不思議と易経の中の卦辞爻辞を読みあげてそのまま解釈するという占法ではなかった。得られた卦から変爻を用いて卦をいろいろに変化させる占法だった。そして筮前の審事をとても重視した。先生はその時はその占法がどこに由来するか言わなかったが、数十年経過した後調べてみるとどうも真勢易に近いと思う。本筮法を用いたわけではないので、真勢易そのものではないが、筮前の審事、生卦法の使用等の方法は真勢流そのものだ。漢字の字義の重視というのはまた違う流派のような気がする。

又、人相などで水野南北の「修身録」や画像気色の講義や実占例なども興味深かった想い出がある。姓名学も当時としては独特のもので、気学四柱推命との組み合わせて命名改名等を行っていた。家相も今は記憶に定かでないが、当時の本を読むといわゆる中国系風水とは違う見方をしていることが分かる。

その後中国系の新しい占法が日本に紹介されてから伝統的日本占法は押され気味であるが、私は周易、人相学、宿曜、気学、家相等は捨てがたい味があると思っている。そして周易を立てる時は今でも真勢流を基本流儀としているが、でもこれが扱える易者は今日では本当に少ないみたいだ。今日でも書店で見かける周易の本は大体易経解釈重視の「高島流」である。それがまちがっているとは思わないがどこか違和感がある。まあ、しょせんは占いなので特に論争する気もない。異なる占法の平和共存でいいと思う。だが日本伝統の占法では海外や政治経済のことは占えないという限界があって(誤解かもしれないが)、その後占星術の方にに惹かれて行った。私がブログでよく書くマンデーン(政治経済気候災害等を扱う)等は実際、伝統的日本占法では弱い分野だと思う。次の機会に、西洋インドの異なる占星術、宿命論と開運占いの事でも書こうと思う。

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初心者とブログと質問

インド占星術に限らず他の占術でも、入門者、初級者はある程度学習が進むと、大体半年位経過すると必ず関連のいろいろなブログを見始める。それはある意味で向学心の表れなのでいろいろなブログを読むことは大いに結構な事なのであるが、そうすると必ず講師に質問を始める。私の勉強不足も多分にあるが、その質問の中にはこちらで聞いていて全然知らないような、あれというような事を時々質問してくる。

「先生、あるブログに○○な事が書いてありましたがどうなのでしょう」「ある古典によると○○だそうですが、そうなのでしょうか」と聞いてくる。私が知っていることならいいがそうでない場合もある。そんな時は「そのブログとはどの先生のどの記事ですか?」「ある古典javascript:void('Fire Brick')とは具体的になんという書名ですか?」と逆に質問することにしている。なにしろ最近はブログは無数に立ち上がっているし、インド占星術の古典といっても30以上ある。そんなものを全部読んでいる、知っている等というのは到底不可能である。そこで逆に質問するのだが、「どのブログか覚えていない」「○○先生のブログの中で、ある古典とだけ書いてある」という場合もよくある。古典の名前が示されている場合でも、その古典を読んでみるとそんなことは書いてなくて、実はそう書いている先生自身が又聞きで書いていることもよくある。とにかく風評や又聞きで判断することは危険である

一般的に言うと、いろいろとブログを読むなら、下記の事に注意するとよい。これは自戒を込めての話である。私のブログがこれをすべて満たしているとはまったく思っていない。私自身の目指すところでもある。

1 ブログの内容レベルが本人の学習レベルにあっている。初心者の内から滅多に使わない技法に首を突っ込むことは賢明ではない。その位なら基本技法にまず習熟すべきである。中上級者になら更なる知識技法を満たす立場にたつことが必要かもしれない。逆に書く方の立場から言うと、どういう読者層を対象にして書くのかそのターゲットを明確に意識するべきである。

 現在学習中の内容のスタンスがぶれない。占いというのはいろいろ流派があり同じ占術でありながら、中には全く違った考え方、技法を用いることがよくある。いろいろ知りたいという知的好奇心は尊重するが、まずは自分が学習している以外の流派の事はいったん脇に置いた方が賢明である。そうでないと情報過多になって混乱し結局すべてが中途半端におわってしまう。書く方の立場からすると自分のスタンスを崩さないことが大切だ。それが世に受けるからと言って日頃の主張と逆のことを言ったり書いたりすることは禁物だ。

3 理論偏重で大言壮語するだけで実践例を示さない(たぶん示せない)、他の流派や他の占い師を批判することだけに終始している、結局は宝石を始めとした物品販売がしたいだけのサイト(しっかり見極めるべし)。こうしたブログは初心者、初級者の内は読むことを避けた方がよい。書く方の立場からしたらこういう事は書かないというのが原則だろう。(残念ながら価値観の占い師とは批判せざるをない時も実際はあるのだが)逆に書く立場からしたら実践的で体系的な内容を心掛けるべきだろう。初心者、初級者はまだ体系だった知識をもっていないし何が正しいか判断できないので、こうしたものを読むと変に振り回されてしまう可能性がある。(もっともそうした自分自身で判断ができないから初心者というのであるが)しっかりした基礎ができた後であれば、この先生は理論偏重、この先生は価値観に偏りがある、この先生は孫引きとパクリ、この先生は他の占い師の悪口だけ、この人は物品販売業者等々の判断ができるようになる。こうした類はそれから読めば十分である。

 

でも生徒さんは私のこんな戯言は気にせず、分からないことは何でも質問して下さい。私が知っている事なら何でも答えます。

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いつのまにか病人にされた

占い師の世界は真に狭い。A占い師の知り合いのB占い師は、C占い師の知り合いでなんてことはざらにある。しかもそれがリアルな付き合いがある場合ならともかく、Eメール、ホームページ,ブログ、SNS等ネットだけの知り合いという場合も多い。ただでさえ想像力豊かな職業集団なのに、ネットだけの付き合いとなるいろいろ思惑、願望、妄想が入り込む。勢い余計な噂、又聞き、デマ、増幅或いは歪曲された情報等が流れ出す。

そんな中で「私が病気である」とか「命さえも危ない時期」とか「最低の運勢の時期」等々トンデモ鑑定をして受講生に喋っている馬鹿な占い師が数名いるらしい。そんなことを風の便りに聞いた。複数の人から同じような事を聞いたので、まあ韓国の慰安婦ばあさんの妄言より信頼性は高いだろう。こんなゲスの噂は無視するのが一番よい。だが、本人が知らない間に重病人に仕立て上げられても困るのであえて声を大にして、ここで否定する。「俺はピンピンしてるぞ。お前等はみんなへぼ占い師だ。何を見ているんだ」と大声で叫びたい。私は確かに最近目の手術をしたが、前から予定していた外来日帰り手術に過ぎない。お蔭様で視力は非常によくなった。定期的に人間ドッグで診断してもらっているが、今現在、入院手術投薬等が必要な病気はない。それ以外に病院のお世話になった事など最近はない。どうしてそういう噂が立つのかまことに不思議である。意図的にそういう噂、デマを流していることはあり得る。

話を聞いてみると、本多さんは「今がサティサティの時だ」、「減衰の月のダシャー期だ」、「火星トランジットがマラカにアスペクトしている」、「サルヴァアシュタカバルガが低い」等々を理由に挙げているらしい。確かにインド占星術的にみるとそんな時期にある。それだけで見るなら確かに健康を害し運気も落ち込むと判断するのは分かる。運勢的に低迷期にあることも認める。だが私の場合、減衰やアリシュタとかいうのはすべてバンガしている。8室には2室にアスペクトバックする土星があり、基本的に長寿の表示である。総合的判断ができないのは占い師として問題だね。どうもご期待にお答えできなくてまことに申し訳けございません。私に好意をもっていないへぼ占星術師は、私が病気になって欲しいと思うものだから、日頃の名鑑定?はどこへやらでトンデモ鑑定団をやらかすのだろう。自分の主観や感情と客観的な事実を鑑定時に区別できないということは、つまり感情のコントロールができないということである。そういう人はいくら知識や技法に通じていても占い師として失格である。占い師はどうも知識偏重の傾向がある。知識はもちろん大事だし勉強すべきだが、占いの知識は今は持っていなくても勉強すればいつか吸収できる。だが性格や人格の深い部分は終生変わらない。人物判断や未来予測で大切なのは実はこの点である。あいつはヘボ占い師と、私は世界に向って叫びたい。(これも感情論であることは承知してあえて言いたい)。「ご期待に副えなくて残念だったな。俺は元気でいるぞ。仕事にも困ってないよ。」

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「健全なる占いのビジネスモデル」を考える(その1)

占星術で金儲けをしてはならない等とどこの誰が決めたのか知らないが、御心配なくと言いたい。そもそも占いにお金を払って鑑定を受けようという人は人口比率から言ってそう多くはない。それから悩み事というのはそういつもあっては困るわけで、基本的に日常の消費財を買うような意味でのリピートオーダーはない。それでは単価は高いのかというと、占いブースでは大体30分5000円が目安であり、個人でじっくり鑑定を依頼する人でも1万〜2万円の間が相場でそう高単価ではない。これを図式で示すと、

顧客人口[少ない)× リピートオーダー(少ない)× 販売単価(そう高くない)という図式になる。つまり「占い業」は付加価値の低い「構造不況業種」である。

そういう意味では占い業で利益を上げようなどというのは不可能である。そもそも金儲けをしたい人は「占い師」など志さない。個人的興味つまり趣味が昂じたか、倒産・解雇・低収入・大病等生業から逸脱せざるを得ない人生経験をしたか、何かの運命のいたづらか、家計を補うために副業で稼ごうとしているかどれかだろう。解脱悟りの手段プロセスとしてのジョーティシュ修行者とか高名な大先生などはほんの一握りだ。現実に大部分の占い師は副業としてやっているのが嘘偽らざる現実である。占い師が法外な利益だの詐欺師だのというのは、弁護士、税理士、僧侶等々どの業種にもいる不心得者であって、それがすべてと思うのは勘違いも甚だしい。それから「占い業」は現代資本主義社会では明らかに「相談業」「カウウセリング業」の一種としてのサービス業として機能している。神の御業でも解脱悟りの手段プロセスとして修行の場でもなんでもない。解脱悟りの手段としてやっている人はそれでもけっこうだが、霞を食べて生活していくわけではないので、それを他人に強要することは何人と言えど許されない。

しかし現実に占いで生活をしている人はいる訳である。「ビジネス性悪説」のような考え方は古代奴隷制社会の時代遅れの遺物である。こういう極論な奴隷思想はむしろ排除した方が世の中の為である。それよりも、「如何に占いで生活できるだけのお金をいただいて、しかも社会的世間的にも容認できる健全なるビジネスを如何に展開していくか」という「健全な占いのビジネスモデル」を各占い師が構築していくことが優先するし、より重要である。それこそが私の理想・目的・ビジネスモデルとするところである。

「さて健全な占いのビジネスモデル」を現実に如何に構築するかとなるとなかなか難しい。ビジネスの基本にまず基本理念、方針がある。個人で言えば「志」である。これが企業やビジネスのモラルをまず保証する。金儲けを志しはするがそれだけではない使命や社会貢献の部分が大切である。金儲けはこのモラルの上になりたつ。これぞピューリタニズムの倫理観につながる。

たとえば、有名なマーケティング戦略の考え方として、「ランチェスター戦略」なるものがある。これは「シェアナンバーワン戦略」と呼ばれるもので、商品No.1,顧客No.1.地域No.1の3つがある。これを占い業に当てはめていくと、

「商品No.1」とは特定の占い、例えば四柱推命の権威とか、結婚問題に関するアドバイスとか、他の追随を許さない高い品質のサービスが提供できることである。これが一番まっとうな稼ぎ方だ。あるいは人に教えることがうまくてもよい。

次の「顧客No.1」とは、顧客数を増やす、リピート数を増やす、高単価等安定した顧客を如何にもつかである。公的機関や組織を相手にする、政治家・実業家等社会的地位の高い人或いは富裕層に属する職業層の顧客をもつか、逆に低単価ならどれほどのリピートが可能なのかである。こう書くとすぐに低品質だの詐欺行為だのと極端に解釈する人がいるがそうではない。それをモラルに反しないやり方で工夫することである。人相学に美容・健康を加えてシナジー効果を狙うのは顧客数を増やすやり方、毎年、年頭に出版される「高島暦」や「エフェメリス」、質の高い「占いコンテンツ」等はリピートオーダーの実例である。

「地域No.1」とはある種の庶民戦略である。日本全体では無名だが、下町では有名な占い師とか、「〇〇の母」とかいった例である。「○〇の母」というのは最初の人は良かったと思うが、その後雨後の竹の子のように出てきてだいぶいかがわしくなってしまった。サービス業のビジネスモデルの難しさは実はここにある。よいと思ったら簡単に真似されてしまうことで、ここが質の高いサービスを考える時に大きなネックとなる。ある意味で大衆化=低俗化というのは避けられない現象であるが、参入障壁を如何に高くするか等の工夫が大事となる。)或いは、吉祥寺のハモニカ横町に無名ではあるがなかなか評判がよくて稼いでいる占い師を知っているが、これなどは地域No.1のよい事例である。

上記のことは私自身の問題でもあるので、このシリーズは又書きたいと思う。

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占い常識論〜中庸の大切さ〜

占いにおいても大切なのは「中庸の徳」である。私は非合理な占いを根底で支えるものは「常識」と「中庸」だと思っている。占いは研究方法を工夫すれば、その中の一部の法則は科学になり得るものはあると思う。もちろんその努力は評価する。しかし、占いはしょせん「補助科学」に過ぎない。個々のアカデミズムの専門レベルははるかに高い。易占や金融占星術が株価や為替の科学的予測に取って代わることはないし、手相や医療占星術が近代医学より優れることはない。宗教法が世俗法より優先するようなことがあってはならない。既存の科学では予測しえない、或いは扱わない盲点のような部分が分かるかもれない位の程度である

占いで何でも分かる、占星術で科学を越えたところまで分かる、方位日取り宝石マントラを使えば何でも可能と思い込むのは危険である。自ずからそこには限界がある。占う側も占われる側も、そこを変に過信するから「騙す」「騙される」というようなことが生じる。過剰に盲信して極端な思想行動に走るからおかしなことになる。双方とも「常識」で考えればそんなことは起こりえない。もっと現実的に判断すべき問題だ。職業選択、結婚、病気を占いだけに頼る、相場を経済のファンダメンタルズや経営内容を調べることなしに占いだけに頼る。開運を方位だけに頼る。そんなことはそれこそ私の常識では考えられない。まず合理的に考えて状況をよく判断する。それが現在得られる情報の範囲ではどうにも判断決断できない時のみ、占いに身をゆだねる。つまり天命に任せるのが本筋というものだ。

占いをビジネスとする時もそれは同じだ。いわゆる悪徳商法」「詐欺商法」はもちろんいけない。だがその悪徳とか詐欺というのもその事実関係や世間相場、常識を踏まえた上で言えることである。事実関係を正確に把握し、バランスや中庸のとれた基準で判断することがまず先決だ。その対極の考え方で、占いで金儲けすること自体がいけないという考えも間違っている。そう思う人は無料鑑定でもなんでもすればよい。だが違う考え立場の占い師にそれを押しつけることはできない。占いビジネスは特に神聖なものでも賤しいものでもない。世間に普通にある相談やアドバイスを中心とするサービス業の一形態にすぎない。最も伝統ある相談業の一つだ。その上で品質を高める努力をする。もっとクールに考えよい。それに対する労働の対価は当然のことだ。その対価が適正であるかどうかは世間相場や消費者(鑑定客)の納得性によるもので、特定の立場の人間が決めるものではない。

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占い師と鑑定のスタイル〜鑑定重視派と激励派〜
占い師或いは占星術師の鑑定スタイルは占い師の個性の数と同じくらい違う。だが大きく分けると、多少辛口でも鑑定結果通りに伝える「鑑定重視派」と多少外しても本人への励ましを中心とする「癒し派或いは激励派」とに大別できる。

「鑑定重視派」は鑑定した結果を重視して結果をそのまま伝える。「激励派」は鑑定結果を基本にするものの鑑定客を元気づける、動機づけることに重きを置く。メーカーで言えば前者は生産志向であり、後者は顧客志向にということになる。前者は鑑定結果を伝えることに熱心なあまりとかく鑑定客を傷つける傾向がある。後者は背中を押しさえすればよいということで適当にいい加減な事を言う傾向がある。そのことを言葉を荒げて非難するしたり顔の聖人君子ぶる占い師もいる。

だが大切なことはどちらのタイプの占い師であろうと、段々に勉強しいろいろ経験すると鑑定態度、スタイル、鑑定能力に変化がでることだ。占い師に限らず人間は経験学習によって進歩し変わってくるものだ。「鑑定重視派」であっても経験によって鑑定客の動機づけを考えるようになるし、「激励派」であっても占術の勉強は少しづつ進んでくる。

私はもともと「鑑定重視派」である。ラグナは射手座でありそこに太陽があり火星もある。どうしたってよくも悪くも率直な物言いをするタイプである。そのためにあらぬ誤解を受ける時もある。だから占い師を始めた頃は、腕が未熟なだけに当ててやろうという意気込みだけが先行し単刀直入に言いすぎた点があったと思う。結婚運の悪い人に「あなたは結婚運が悪い」とはっきり言い過ぎて相手を傷つけたかもしれない。そうすると相手の眉がピクピク動いて反応するのを何回もみたので、徐々に反省するようになった。まず最初は言い方を工夫するようになった。結婚運が悪いという指摘はしても、それをどう伝えて鑑定依頼者の将来を少しでもよい方向にもっていくかあまり考えなかった。(もともと運気の弱い人が鑑定依頼に来ることが多いのだから、結婚運、仕事運の悪い人が鑑定依頼者に多いのはある意味当たり前で、それをいちいち指摘する必要はないのかもしれない)

次に、そういう中でもどこをどうすれば多少なりともよい人生を送れるのか、そのためにはどこをどう指摘してあげればよいのか考えるようになった。カルマは変えられないとしても、その範囲の中で弱みよりも強みをどう生かすか、弱い運気の時をどう避け強い運気の時をどう生かしていけばいいのか、本人が運気が弱いなら強い人の協力をどういう形で得ることができるか、そんなことを段々考えるようになった。例えば結婚運といえば、その視点は金星と7室である。その2つが駄目なとき、「あんたは駄目だ」みたいないい方を以前はしていた。でもそれじゃ救いがない。その中でも4室のよい人はいる。いいかえれば男女関係の運は弱くても家庭重視の「お見合い型」である。そんな人に結婚相談所に行くことを進めている。実際にそれに対する成功例は少なからずある。

占い師の中にはとかく評論家気取りで高い目線でそういう過去を非難する人がいるが、占い師は聖人君子ではない。それはあるべき姿であって現実は、それを偉そうに言う占い師も含めてそんなに偉い存在ではない。人は失敗によって進歩し改善することは占い師とて同じである。
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異なる占術間の論争
自分が専門とする占術がよく当たると自負する、或いはそう思いたいという気持ちは理解する。しかし、それだけが唯一正しいとか、他の占術を妙に排斥したり、けなしたりするのはいただけない。

よくあるのは同じ占術の中で「流派」が違うと激しくぶつかるケースだ。これは近親憎悪のようなものであろう。似ているが故に、近いが故に僅かな違いも許せないと思うのだ。これが極端になるとまるで宗教戦争のような状態になる。お互いに相手を「邪教」と罵ることになる。インドでもあるし四柱推命の研究者間でよくそういう論争をみかける。インドの場合だと、どの古典を特に重視しているかで考えの違いが生じるし論争もある。四柱推命だとある人のチャートを従財格でとらえる場合と単なる身強とみるかで大運、年運の見方に違いが出る。中国系、透派、伝統的日本派間での論争は盛んだ。或いは周易と断易、気学と奇門遁甲、古典占星術と西洋モダン占星術、西洋占星術とインド占星術等でもよく見られる。気学にしてもあまりそこだけに凝るのはどうかと思うが、平気で五黄、暗剣をつくのもどうかなと思う。古典占星術をやるある人のサイトをみるとモダンの西洋占星術がけちょんけちょんにけなされている。モダンが古典と比べると確かにその体系がシンプルになっているとは認めるが、だからと言って全否定することはなかろうと思う。厳密にいうとその古典の中でもいろいろやりとりがある。

こうした異なる占術は前提としている価値観、論理、体系がちがうのだからある部分だけとらえて、そこが当たっているとか違うとか言っても埒はあかない。全体としての体系が違うのだから部分だけとらえて議論しても意味がない。西洋占星術をやる人がトロピカル方式とサイデリアル方式でアセンダントの位置が違うからどうのこうのという意見を時々みかける。しかしそれは同じ「占星術」という名前をもつので、両者ともに同じ価値観、論理、象意、体系を持つと思う所からくる錯覚である。さすがに四柱推命をやる人が紫微斗数のことを当たらないとけなしはしても明らかに体系がちがうからそこまでは錯覚しない。しかし占星術ではそれは起こり得る。両者ともに1室が性格、健康、先天運という象意をもつからと言って、地上の世俗的な身近な事象がよく表れる西洋占星術と天空上の霊的な事柄、カルマ的な事柄がよく現れるインド占星術とは価値観もロジックも体系も違うのである。同じような形では決してあらわれない。

こういうことは複数の占術を勉強してみるとよく分かることなので、私は占い師を志す人は、命卜相の占いをそれぞれ2つづつ勉強することをお奨めしたい。そうすれば前向きの議論はよしとして、つまらない論争や揚げ足取りはしなくて済む。
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占星術の疑似科学性
「占星術は科学か」という議論がある。これについて下記のようなサイトがあって、占星術ばかりでなく臨死体験とかUFO、自己啓発、代替医療等々、携わる本人は真面目に取り組んでいるつもりでも、下手をすると「いかがわしい」「あやしい」と言われかねない事柄についてその科学性を検証している。

疑似科学とされるものの科学的評定サイト

http://www.sciencecomlabo.jp/fortune-telling/astrology.html

それによれば、占星術は

 ー匆颪任慮共性は低い
◆.如璽燭瞭明性は低い
 データの再現性は低い
ぁ.如璽燭竜甸兩は低い
ァ〕論の論理性は普通
Α〕論の体系性は低い
А〕論の普遍性は低い
─‐来の予測性は低い
 社会への応用性は普通

となっている。いわゆる実態を知らない学者先生の観念論的な「科学的分析」の視点からみれば占術や占星術はこういう評価を受けるだろうなと思う。私自身は占いが科学とは思っていないし、科学である必要もないと思うのでこういう分析をされたからと言って特に反発はない。ただ言いたいことは、

占術や占星術を卑しめているのは実は占い師や占星術師自身である。
科学的評定という割には、占星術、臨死体験、UFO,代替医療等の実体そのものを知らなすぎる。

この2点に尽きる。

颪砲弔い討呂い蹐い躙世い燭い海箸あるのだが簡潔にすます。あやしげな占いやスピリチュアルビジネスをやる輩が絶えないのは事実である。しかしこれも売らんが為、食わんが為の情けない占い業界の窮状からくるものである。私は占い師の仕事が権威などとはこれっぽちも思っていない。要するに占い師という職業は、本人がいくら権威と称してもしょせん「売卜者」に過ぎないのである。△離如璽燭瞭明性の低さは「秘伝ビジネス」で業界が成り立っている以上、或いは個人ビジネスのレベルから脱却できない現状である以上、やむえない面があると思う。これでは科学的検証に耐えるレベルのデータの蓄積などはできる余地はない。鬚砲弔い討呂海離汽ぅ箸諒析では、占星術を以下のように定義しているが、ここに問題矛盾がある。

「本項目で記載する占星術は、伝統的な歴史や技芸を背景にしながら、商業的な場面で一般的に登場する“未来予測”という実践を主な評価対象とする。つまり、本項での“占星術”という表現は、たとえばマスメディアから提供される「今日の運勢」や「あなたの星座診断」といったキャッチ―でフランクなものを想定している。」

私から言わせれば、この前提そのものがおかしい科学的評価というならまず分析対象の実体や事実関係をきちっと把握することが重要な筈だ。占いや占星術等当たる筈がないという前提に立ち、社会における占術及び占星術の表層的な社会現状からみた「分析」にすぎない。占星術そのものを深く分析しているわけではない。学者なんてこんな程度かね。これは他の疑似科学と言われるものも同じ扱いをしている。言いたいことは「ミイラ取りがミイラ」になったゴークラン研究のことを挙げているが、その位の深い突込みがないとこうしたテーマの研究は、自らが非科学的研究に終わるということだろう。科学的評定という割には自らの研究はお粗末な位非科学的である。
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宿命と努力
このブログを見る人はたいてい占い好きの人と思うが、なかには「占い嫌い」の人もいるだろう。その理由として挙げるのが、占いのような科学的根拠の乏しいものは信じるに値しないという意見がある。しかし、それ以上に挙げる理由が、占いで何かを宣告されると自分の運命を制限されたように感じるから嫌だというものである。そういう意見の人は実は腹の底では占いを信じていることになる。信じなかったら何も制限をかけられていると気にすることもないわけである。

占いは基本的に宿命論の立場をとる。占星術や四柱推命等の命理系の占術は特にそうである。インド占星術などはカルマに基づく典型的な占いであるが、生まれた生年月日時間、場所ですべてが決まっているとする完全宿命論を取っているわけではない。むしろ努力やそのタイミングの大切さを肯定している。これと反対の立場が、成功哲学や自己開発プログラムのような考え方だろう。
ポジティブシンキングとか「思いは実現する」とかいって努力と信念によって人生に不可能はないかのように説いている。占星術の中でもモダンの西洋占星術の中のある流れは、運命はある程度決まっているものの、その流れを心の持ち方で如何に変えていくかということに重点を置いている。開運系の占いもそうである。

私個人の意見としては完全宿命論も努力万能論も採らない。事実はその中間にある運動神経が鈍く体力も弱い人でも努力次第である程度まで運動能力を身につけることができる。数学、英語ができない人でも適切な勉強方法をとればかなりの程度まで学力は伸ばせる。これなどは努力の価値である。話し下手の人、社交性のない人もある程度までは解決できる。ビジネススクールで実践的経営学を徹底的に学ぶと半分以上の人が経営者のなれるというのも努力の価値を認めたものである。

しかしそういう人に聞きたい。「それじゃああなたは総理大臣になれますか」「オリンピックにでて金メダルがを狙いますか」「実業家としてビルゲイツのような成功を目指しますか」「ノーベル賞をもらうような科学者になれますか」と質問したら大部分の人は否定するだろう。これなどは人間には努力だけでは越えられない運命、資質がある事を暗に認めているからに他ならない。

宿命論でも努力重視でもかまわないが、バランスのとれた考え方が大事だと思う。
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占いにおける中庸の大切さ

私は占い師、占星術師だが拠って立つスタンスは飽く迄常識重視、中道路線である。

占いに科学では解明できない神秘的要素が入り込むのはやむをえない。又、ある程度は宗教思想やスピリチュアリズムの影響を受けることもありうる。だが特定の宗教思想にどっぷりつかった極端な精神主義的考え方には賛成できない。やはり宗教は宗教、占いは占い、現実は現実という常識ある態度が大切だと思う。そこの所を混同すると正常な判断はできなくなる。その逆に、壷、墓石、宝石、方位等々これまた違う意味でのご利益主義も大いに問題がある

1 占いに神秘主義、精神主義はつきものだが,あまりにも非常識な思い入れは危険である。

2 占いで人を騙すことはよくないが、適性利益の範囲内での商売まで否定することはない。

3 金儲けの方法は考えなくてはいけないが、金儲けそのものが悪ということはない。


1 方位効果、風水効果がある程度有効であるが、それはカルマの範囲内の開運である。

2世の中に驚異的な霊能者がいることは認める。でも本物はごく限られた人達である。またそういう人達は世俗的な予言は行わないのが普通である。

占いおける過剰な精神主義とご利益開運主義の2つの考え方は実は根にあるものは同じだと思う。よく政治思想で右翼と左翼は実は同じ穴のムジナだ言うことがある。左右両極の政治思想は、自分達への反対意見に対して狭量で、これを暴力をもって1排除するという点では共通している。それと同様、占いにおける極端な理想主義もご利益主義も、現実や常識を無視した理論偏重の教条主義、異端に対して狭量、そして妙な権威主義という点では共通している。

占いには命占、卜占、相学、開運法といろいろあっていいが、いずれも理論より現実、常識を重視する考えを根底に置くべきだ。占いを学問というなら、研究方法論は一つではなくいろいろあってよい。それぞれの占いにはそれぞれの特徴がある。特定の占いだけでなく複数の占いを勉強すればまたちがった視点でものが見える。あまりに多くの占いをかじりすぎるのもそれだけ中途半端なものになるから、それは注意すべきことだ。正統だの異端だのという前にそれらをまず自分自身でじっくり研究した方がよい。

1占いの基本にあるのは現実、常識である。的中精度を高める努力は大切だが、過度に頼りすぎるのはよくない。過剰な神秘主義はとらない方が賢明である。

2もし理論と現実が一致しないなら間違っているのは理論の方である。

3占いの研究は必要だし古典の重要さも認める。でも研究方法論は統計、数量化、定性的研究等々いろいろある。特定の占い、先達、古典、研究方法だけが正しいということはない

4占いはそれぞれに得意技があり、いろいろの占いを習得するのは多様な視点だみられるのでよい事である。但し、人間の情報処理能力には限界があるので、あまりに間口を広げすぎると中途半端でいい加減なものになる。万能選手ということはありえない。

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