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占星術でみる鳥羽伏見の戦い

今年は明治維新150年に当たる。そのせいかNHK大河ドラマ「西郷隆盛」をはじめ、多くの明治維新本が出版されている。その明治維新の明暗を分けた戦いは、鳥羽伏見の戦いだろう。この戦いで勝利を得た薩長軍が以後、官軍となり幕府軍は賊軍となり戊辰戦争を経て明治維新まで一気に突き進む。

まず、鳥羽伏見の戦いまでのざっとした流れを見ておこう。慶応3年(1867年)10月13日岩倉具視等の策謀により討幕の密勅が下るが、翌14日に土佐藩主山内容堂より徳川慶喜の大政奉還が上奏され、討幕の密勅は効力を失う。幕府は大政奉還はしたものの実質内政外交の権限を握ったままだったので、薩長側は幕府側から戦端を開かせようと、幕府の挑発を図った。薩摩藩士益満休之助主導の下、相良総三らの無頼漢を使って江戸の豪商を襲い、強盗、強姦、放火等、江戸市中の治安攪乱を行う。これに憤慨した幕府は治安攪乱源の薩摩藩邸上屋敷の砲撃を決定し、12月25日に幕閣の命を受け庄内藩兵は薩摩屋敷を砲撃する。この報が徳川慶喜のいる大坂城に入ると、城内の幕臣、会津藩、桑名藩等々憤激し、「討薩表」をかざして京都への進軍を開始する。それまで勢力回復を図って隠忍自重していた徳川慶喜はその勢いを止めることができず、幕府軍は京都へ進発する。しかしそれは何の戦略も準備もない戦いであった。まさに薩摩の挑発に乗った形で、薩摩の思う壺というところだろう。

鳥羽伏見の戦い

鳥羽伏見の戦い、イベントチャート

鳥羽伏見の戦いは慶応4年1月3日、グレゴリオ暦で1868年1月27日午後5時、薩摩側からの発砲で始まった。幕府軍の兵力は1万5千、薩長軍は5千だった。兵の数だけなら幕府軍の有利であるが、幕府側は会津藩、桑名藩、新撰組を除いては諸藩から集めた烏合の衆であり、武器も旧式のものであった。なによりも幕府軍は当時の京都側の実態を知らず、歩兵部隊は鉄砲に玉を込めずにいたとう無防備な状態であった。これに対して薩長側は当初より戦意旺盛であり、歩兵、砲兵とも準備万端、戦いに備えていた。このような状況は上図のイベントチャートによく出ている。Asを幕府側、対極の7室を薩長側としてみると、1室の支配星の月は8室にあり、戦いそのものに迷いと逡巡がある。8室に在住する金星、木星等の生来的吉星だけで明らかに戦意に乏しい。一方、薩長側の7室は高揚火星があり権威や大義名分を示す太陽もある。薩長側の旺盛な戦意と優れた武器、錦旗はためく官軍という政治的大義が大きな力を発揮している。更に7室山羊座は土星がアスペクトバックしより一層の力を与えている。8室の木星にはラーフがアスペクトし力は弱いものの「恩知らずのヨガ」ができている。事実、幕府軍不利となると、淀藩、藤堂藩といった親藩からの裏切りが続出した。ラグナロードの月からみた12室に火星、太陽があり、将軍徳川慶喜は戦意を喪失して大坂城から敵前逃亡し、幕府はその政治的権威を瞬時にして失った。慶喜自身がグルチャンダラの影響を受け、幕府将兵、会津桑名新選組を裏切ったことになる。

この戦いは緒戦では幕府は敗退したが、大坂城で籠城して踏ん張れば十分に勝機はあった。持久戦にもちこめさえすれば、その内に関東よりフランス式幕府歩兵部隊が到着し、火力で薩長を上回る。圧倒的に優勢だった幕府海軍は榎本武脇指揮のもと大坂湾にあり制海権を握っているから薩摩、長州からの武器弾薬、食料補給等を絶つことができる。その上で、大坂から京都を攻めれば、近畿諸藩も幕府側につき、京都にいる薩長土は兵糧攻めの形になる。客観的にみれば幕府が負けるはずのない状況なのだが、司令官にやる気がない時の組織は、脆くも瓦解する典型的な例だ。そしてイベントチャートが示すように、「時の勢い」というものはすべて動向を左右するとも思える。

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文永2年元旦の日蝕
 歴史上の人物や出来事を占星術で分析できたら面白いと思うが、古い時代の出来事の時間はよく分らないことが多い。しかし、時には歴史書等に歴史上の出来事がいつ起こったかはっきり記録され散る時がある。そんな時、占星術で分析を試みるとなるほどと思う時がある。

鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」には毎年の鎌倉幕府の主要な出来事が欠落した個所はあるが、大体記録されている。

文永2年元旦に連署となった15歳の北条時宗は正月3ケ日に主君に忠誠を誓う意味で、家臣が主君に酒肴を献上し、これを受け取った主君が側近達と酒宴を開く行事の世話役を務めることになった。これを「垸飯役」という。その元旦は事前に天文通の博士から「その日、日蝕あるべし」と、予言されていた。しかし、その日は前夜から雨が降り続いていたので、遂に日蝕は見られなかった。だが、将軍宗尊親王は垸飯の席には現れなかった。側近から、「必ずや不吉のことあるべし」と、京下りの公卿から出席を反対されたらしい。そんな記録が「吾妻鏡」に書かれている。

12650126日蝕
           文永2年元旦の蝕図(SG使用)

上図は、文永2年元旦をグレゴリオ暦に変換したものである。ちょうど1265年1月26日午前9時52分に太陽と月がコンジャンクションしノースノードもオーブはちょっと離れているが近い位置にある。部分日蝕位は発生しているだろう。(当時用いられていたユリウス暦に直すと、1965年1月19日に相当する)IC軸にコンタクトしているサインは水のサインの蟹である。そのルーラーの月は太陽ばかりでなく水星やモイストの金星とコンジャンクションしている。これらの惑星はいずれも降雨を示す海王星とオポジションになっている。この配置なら雨が降ってもおかしくない。そしてこの直後に、比叡山延暦寺と三井寺との間に争論があり一触即発の事態となったとの早馬が京より鎌倉に届いている。

これから推測する限り、その当時すでに蝕があると何か変事が起こるということは分かっていたようである。また、これから見る限り天文観測技術もかなり正確である。これらの暦法や観測技術はどこから伝えられたものであろうか。当時の宿曜道ではこのような観測が可能な技術や暦法が伝わっていたものと思われる。
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