2008.10.19 Sunday
占星術評伝(1)皇女和宮〜その結婚の不幸と幸福〜
今日はNHK大河ドラマ「篤姫」を見た。明治維新を女性史の視点から描いた初めての歴史ドラマということもあって、日頃歴史に関心の薄い女性からも高い視聴率を得ている番組と聞いている。今日は和宮の夫徳川家茂が27歳でこの世を去るシーンがあった。薩摩出身の篤姫も政略結婚であったが、和宮もまた岩倉具視等が推進する公武合体政策のもとで、有栖川熾仁親王との婚約を破棄させられ江戸への降嫁を強要された運命にあった。
そのような薄倖だった彼女の運命にふと興味が湧いたので、いくつかの資料をみながら簡単な和宮の占星術評伝を書いてみた。誕生日は大体分かっているが時間が未刻から申刻(午後1時〜5時)となっているので、結婚の時期、死期、健康、結婚生活等の経歴にもとづいてレクティファイをかけてホロスコープを作成した。

和宮のホロスコープ
結婚表す第7室にはやはり特徴が出ている。第7室には結婚のカラカである金星が在住している。第7室に金星ということになると結婚生活はよさそうに思うがその逆である。通常は結婚運はよくない。しかしそこに木星がコンジャンクションしている。金星は7室を支配し木星は2室を支配してマーラカハウスを形成している。まずこれが和宮の結婚生活をすべてを表している。
1862年2月、彼女は家茂とはラーフ/太陽に結婚している。ラーフからみて太陽は9番目のハウスになりそれまでの社会的地位や立場を失うことを意味している。皇女が武家に降嫁した例は後にも先にも和宮だけである。この結婚は皇女の面目を失う結婚であったことだろう。しかし、徳川家茂との結婚は政略結婚という意味では不幸であったが、家茂は大変心根のやさしい人で夫婦仲そのものは大変仲睦まじいものであったと伝えられている。第7室に木星が入っていることが政略結婚という不幸を大きく緩和し、寛大な夫を持つことができたことを物語る。しかし、同時に第7室の惑星がマーラカ支配になっていることは不幸であった。これは夫家茂の短命を意味するものである。
和宮が如何に家茂を愛していたかいくつかの逸話が残っている。家茂が長州征伐の為に上洛の際、家茂から江戸への凱旋の土産は何がよいかと聞かれた和宮は西陣の織物を強く望んだと言われている。しかし家茂は長州征伐がはかばかしくない中、大坂城にて病没する。没後に西陣織は形見として和宮の元に届けられたが、和宮はそれを見て大いに嘆き次のような和歌を詠んだという。「空蝉の 唐織り衣 なにかせん あやも錦も 君ありてこそ」。私の主観を交えて意訳をすれば、「西陣の織物など要りません。あでやかな織物はあなたあってものです。あなたがいなくなった今、こんな織物など私にとって何の意味もありません」とでもなるだろう。そしてこの和歌を添えて、その西陣織を増上寺に奉納したと伝えられている。

和宮のダシャー
1868年官軍が江戸城を攻撃しようとした時、その中止を朝廷に嘆願することによって彼女は歴史の表舞台で活躍する。この時は木星/土星期に当たり、木星から見て土星は9室と10室を支配しており、社会的に活躍する時期当たっている。しかし、この土星は火星とラーフの凶星からアスペクトを受けている。土星は木星からも火星からも敵対関係にある。土星が強いからと言って幸福であるといえる状態にはない。
1877年9月、和宮は木星/月期に脚気が原因による心不全で亡くなった。心臓を表す月はとても傷ついていて、同じく心臓を意味する蟹座に在住する減衰火星と凶星ケートゥのアスペクトを受けている。月は又、ジャイミニ方式でのグナティカラカでもある。火星と月は星座交換でよいと書いている書籍もあるが、私の検証例では、減衰の絡む星座交換にはよい事例はない。
薄倖だった彼女は、死の直前に京都ではなく夫家茂の側に埋葬してくれと言い残して死んだ。時代に翻弄された生涯の中で、夫家茂の優しさだけが彼女のよき想い出であったのであろう。(まさに木星だけが唯一彼女の人生の救いであった)
そのような薄倖だった彼女の運命にふと興味が湧いたので、いくつかの資料をみながら簡単な和宮の占星術評伝を書いてみた。誕生日は大体分かっているが時間が未刻から申刻(午後1時〜5時)となっているので、結婚の時期、死期、健康、結婚生活等の経歴にもとづいてレクティファイをかけてホロスコープを作成した。

和宮のホロスコープ
結婚表す第7室にはやはり特徴が出ている。第7室には結婚のカラカである金星が在住している。第7室に金星ということになると結婚生活はよさそうに思うがその逆である。通常は結婚運はよくない。しかしそこに木星がコンジャンクションしている。金星は7室を支配し木星は2室を支配してマーラカハウスを形成している。まずこれが和宮の結婚生活をすべてを表している。
1862年2月、彼女は家茂とはラーフ/太陽に結婚している。ラーフからみて太陽は9番目のハウスになりそれまでの社会的地位や立場を失うことを意味している。皇女が武家に降嫁した例は後にも先にも和宮だけである。この結婚は皇女の面目を失う結婚であったことだろう。しかし、徳川家茂との結婚は政略結婚という意味では不幸であったが、家茂は大変心根のやさしい人で夫婦仲そのものは大変仲睦まじいものであったと伝えられている。第7室に木星が入っていることが政略結婚という不幸を大きく緩和し、寛大な夫を持つことができたことを物語る。しかし、同時に第7室の惑星がマーラカ支配になっていることは不幸であった。これは夫家茂の短命を意味するものである。
和宮が如何に家茂を愛していたかいくつかの逸話が残っている。家茂が長州征伐の為に上洛の際、家茂から江戸への凱旋の土産は何がよいかと聞かれた和宮は西陣の織物を強く望んだと言われている。しかし家茂は長州征伐がはかばかしくない中、大坂城にて病没する。没後に西陣織は形見として和宮の元に届けられたが、和宮はそれを見て大いに嘆き次のような和歌を詠んだという。「空蝉の 唐織り衣 なにかせん あやも錦も 君ありてこそ」。私の主観を交えて意訳をすれば、「西陣の織物など要りません。あでやかな織物はあなたあってものです。あなたがいなくなった今、こんな織物など私にとって何の意味もありません」とでもなるだろう。そしてこの和歌を添えて、その西陣織を増上寺に奉納したと伝えられている。

和宮のダシャー
1868年官軍が江戸城を攻撃しようとした時、その中止を朝廷に嘆願することによって彼女は歴史の表舞台で活躍する。この時は木星/土星期に当たり、木星から見て土星は9室と10室を支配しており、社会的に活躍する時期当たっている。しかし、この土星は火星とラーフの凶星からアスペクトを受けている。土星は木星からも火星からも敵対関係にある。土星が強いからと言って幸福であるといえる状態にはない。
1877年9月、和宮は木星/月期に脚気が原因による心不全で亡くなった。心臓を表す月はとても傷ついていて、同じく心臓を意味する蟹座に在住する減衰火星と凶星ケートゥのアスペクトを受けている。月は又、ジャイミニ方式でのグナティカラカでもある。火星と月は星座交換でよいと書いている書籍もあるが、私の検証例では、減衰の絡む星座交換にはよい事例はない。
薄倖だった彼女は、死の直前に京都ではなく夫家茂の側に埋葬してくれと言い残して死んだ。時代に翻弄された生涯の中で、夫家茂の優しさだけが彼女のよき想い出であったのであろう。(まさに木星だけが唯一彼女の人生の救いであった)

